今日一日怒らず恐れず悲しまず、正直親切愉快に、力と勇気と信念とをもって生きる[213/1000]

今日一日

怒らず 恐れず 悲しまず

正直 親切 愉快に

力と 勇気と 信念とをもって

自己の人生に対する責務を果たし

恒に平和と愛とを失わざる

立派な人間として生きることを

厳かに誓います

 

人間は万物の霊長と言われる。それは人間だけに与えられた言葉が、自然の法を身とする道具となり得るからである。どんな言葉を発するかによって、心は前にも後ろにも向く。今日一日を生きることの勇気を授かることもあれば、今日一日を生きることに絶望することもある。日々、命を全うできるかは、すべてどんな言葉を発して生きるかに懸かっている。

寒いな嫌だなぁとか、今日も仕事が憂鬱だなぁなんて、朝から心に呟かせていたら、ちっとも元気にならない。怒りや悲しみや恐れに打ちひしがれるとき、心には、必ず濁った言葉が生じている。濁った言葉を心に呟かせることを無法的に許容していれば、いつまでも感情に支配された消極的な生き方しかできない。

 

なら私は消極的な生き方でいい、と何もかもが嫌になれば自分を破壊することを自分は望んでいるようだけれど、望みの奥を静かに見つめれば、そこにあるのは蘇りたいという一心ではないか。これは自然の法が、恒に誠と愛と調和に向かおうとさせてくれる大きな慈悲が働いている証拠だと思う。天は誰も見捨てることも、ひいきすることもせず公平に我々を見守っている。

 

心が後ろに向くのを、前に向けられるのが人間の言葉である。寒いなぁ布団から出たくないなぁと思えば、1日を始めることも億劫になるが、寒いなぁ寒いけど強くなるなぁと言葉にしてみれば、不思議と寒さにも立ち向かえるものである。心を怒りで満たすことも、悲しませることも、怖がらせることもせず、良い言葉で今日一日を生きられたなら、心の陰鬱な霧は次第に晴れ、自然の法が少しずつ、身に宿っていくものだと信じる。

言葉が大切だなんて説教は、古くさく、そんなこと分かってらァと傲慢になるのであれば、ちっとも分かっていないということである。人間として生まれたからには、天から授かったこの言葉の偉大な力を自覚し、大切に扱いたいものだ。

 

精神修養 #124 (2h/256h)

あくまで仮説ではあるが

・本能心は本能心に気づくことができず、理性心も理性心に気づくことができない。

・本能心に気づくのは、いつも理性心で、理性心に気づくのはいつも本能心。

・だから両者のうちに煩悶を生む時、行ったり来たりする。「食べるか、食べないか。やるか、やらないか」のように。

・本能心と理性心の上位の存在にあるものが、霊性心だと思う。

・霊性心もまた、霊性心そのものを自覚することができず、本能心と理性心に気づいている状態を通して、間接的に自覚されるものかもしれない。

・天風先生が、人間の心は月よりも大きいと言った。それは心が月の存在に気づき、月について考えられることが、より高次な証拠であるという意味なんだろう。

 

[夕の瞑想]

・神経が興奮状態にあると、心のおしゃべりが止まらない。

・仕事の後に瞑想をすれば、理性心のおしゃべりが実在意識を圧倒する。これは生き抜くために人間に仕組まれた生存本能であろう。

・理性心が実在意識を占領するうちは、霊性心は表に出てこられないようになっている。

・仕事の最中、穏やかな心を持ち、透明な流れになることを望もうも、それが実現しないのは理性心の働きが活性化されるからだろうか。

・もう少し心に余裕が生まれ理性心の働きも興奮状態にならなければ、霊性心は働くかもしれない。

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