森の家で過ごすこと2日目、夜中にふと目が覚める。窓の外は深い闇に包まれて何も見えないはずなのだが、なぜだか薄っすら木々が見える。はて、さては月のしわざだなと思い、足元を照らすランタンを片手にとって、夜の森に飛び出していく。こうして、夜中に目が覚めたとき、外が明るいと月が見たくなる。そして、この衝動に駆られて月を眺めたとき、感動せずにいられなかったことはない。
昨晩は、見たこともないほど美しい満月であった。うっすらと雲を纏う姿は、まるで羽衣を纏った天女のようで、妖艶で神秘的で、何を語りかける間もなく、ただ心を奪われていた。
翌日知ったが、どうやら昨晩は、中秋の名月だったという。一年で最も美しい月と言われるが、それも頷けるほどの美しさであった。そうした晩に偶然目が覚めたのは、運がよかったというよりも、不思議と月に呼ばれた気持ちになったのである。
半年前にこのブログを「草枕月記」と改号し、昨年の冬はベートーヴェンの「月光」を毎日聴き、つい先日この森を「月光の森」と呼ぶことにした。月への憧れが日に増して強まるのは、物質主義に惑わされず、宇宙的な人生観を立てるには、月と語らうことが必要という確信からである。孤独になるほど月は語りかけてくれるし、体感的な推測であるが、体は日光を必要とするのと同じく、月光も必要としているように思う。私自身、月が見たくなるというよりは、月光を浴びたがっているというほうが正確かもしれない。体内に働く良い作用が後押しして、月を眺める時間を有意義なものにしている。
孤独に生きる人間も、何かを心の拠り所にしなければならない。それが友である場合も、本である場合も、月である場合も、そのどれもが先をたどっていくと宇宙の彼方に伸びていくものである。言葉になるものや、目に見えるもの、触れるものを通じて、言葉にならないもの、目に見えないもの、触れないものを掴もうとしている。
それに向かって生きるのである。それが人間が人間として生きる意味だと思うからである。
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