魂とは肉体を拒絶するなにかである[412/1000]

「魂とは肉体を拒絶するなにかである」とアランは言う。私はこの定義によって、魂の崇高さと厳かな美しさに、ほんのわずかであるが近づくことができたと実感する。

日々、私の肉体は拒絶され、その耐えがたい苦しさに魂から逃避しようとする。この1000日投稿がなければ、とっくに魂など捨ててしまっているに違いない。魂を拒絶する肉体を傍観しながら、その肉体のいやらしい駆け引きに数えきれないほど失望してきた。

それでもこの一線だけは絶対に死守しなければならないという宇宙的な意地が、日々、恥と誇りを思い出させ、恥多き放縦に流れようとする肉体を、魂がぎりぎりのところで再び締めつける。結果論であるが、この1000日投稿がその役割を果たそうとする。

 

肉体を鍛錬する理由があるとすれば、魂を掴んだまま、肉体の拒絶に屈することなく、苦悩のなかを強く生きることである。ほんとうにぎりぎりのところで、ぎりぎりのまま魂にぶつかっていくのである。魂に弾かれ、自己否定が無限に生まれるときも、ここで自己否定をしなければ、恥も誇りもなくなってしまう。ダメ人間であり、クズ人間であるのだが、ダメ人間でなくなるより、クズ人間でなくなるより、魂があるだけマシだと思うのである。底辺まで堕落した、どうしようもない人間であるが、底辺がなくなってすべてが水平になるよりも、天を眺められるだけマシだと思うのである。

 

魂とは肉体を拒絶するなにかである。厳しいものであるゆえ、物質が力を持ちすぎた現代では、肉体が魂を拒絶するようになった。ゆえに、人間の魂は失われた(戦後日本のことを言えば、日本人の魂が失われた)と言われる。ダメ人間もクズ人間も消え、感情が何よりも大切となり、”自己肯定感”のまやかしによって、天も地も喪失したのである。

生きているだけですべてが尊い。そうして生きるのも幸福でいいかもしれない。しかし、私はこの現世に閉ざされたときに顔を見せる、虚無というものに生そのものを絶望してしまうのだから、魂の価値を信じようとつとめるのである。苦しいが、虚無はない。ダメ人間であるが、天の声に救われる。

これが現時点での、私の魂に対する理解である。

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