「愛に憑かれた人間は、それ以外のことはなにもきこえず、なにもみえなくなる。自分が自分の主人でなくなるのですから。ガレー船の漕ぎ座につながれた奴隷のようなものです。ストリックランドを捕らえた情熱は、愛と変わらない暴君でした」
「不思議ですね。あなたからそんな言葉をきくとは!わたしも前々から、ストリックランドは悪魔に憑かれているようだと思っていたんです」
「ストリックランドを捕らえているのは、美を生み出そうとする情熱です。情熱が彼の心をかき乱し、彼をさまよわせる。あの男は永遠の巡礼者です。信仰と郷愁に絶えず悩まされている。そして、彼の内に棲みついた悪魔は残酷だった。たとえば真実を求める気持ちが異様に強い人間がいます。真理を希求するうちに、自分の世界を土台から粉々に破壊してしまう。ストリックランドはその類の人間でした。彼の場合、求めたのは真実ではなく美でした。わたしは、彼に深い同情しか感じません。」
サマセット・モーム, 「月と六ペンス」
男というものをストリックランドから突き付けられる。
ストリックランドの生き方は「永遠への巡礼者」と言われるように、信仰的で魂にすべてを奉げるような生き方だった。どんな肉体的な迷いも、ストリックランドの信仰の前では、魂の鋭い牙によって嚙み砕かれた。読者の私の迷いすら鮮やかに砕かれるほどである。
魂や死について何かを語ろうとするのは、そのものの価値を信じたいからである。本当に魂の価値を信じる人間は、言葉はなく、ただ憑りつかれたように狂うあり様だけがあるのだと、この人間を見ると感じさせられる。
金?なくなったら稼げばいい。
食うもの?どうでもいい。
妻と子供?あいつらは俺がいなくてもなんとかやる。
死?そんなことどうだっていいだろう。
ストリックランドは、40歳で仕事も家族も捨て、一人パリに渡り、貧しい暮らしの中、絵を描く。晩年は、タヒチで暮らし、病気で死ぬその直前まで絵を描きつづけ、死んだら辞世の大作とともに燃えて消えていった。生前、誰からも評価されなかった。
ストリックランドは、ポール・ゴーギャンがモデルとなったと言われており、実在しない人物である。「月と六ペンス」は必ずしも実話ではないけれど、魂的には真実だったのだと思う。キリストが盲目を癒したことが魂的には真実であったと同じことで、モームが掴んだゴーギャンの魂もそうであった。
どうでもいいことで溢れてる。なにもかもどうでもいいことばかりだ。どうでもいいことに悩み、どうでもいいことに関心を集め、どうでもいいことばかり話し、どうでもいいことの価値が信じられる。そうした世界のまやかしのなかで、ストリックランドは目ざめていた。
もし、ストリックランドがここにいたら、私はこの人間が嫌いになるに違いない。本に陶酔し気持ちよくなる読み方は本当の読み方ではなく、実際に目の前で自分と対峙するとしたら、私は私を拒絶する。実際にこの人間と同じ空間にいることを思うと、居心地が悪くなる。
しかし、そうでなくては意味がない。拒絶、拒絶、拒絶。強烈な男の魂の前に拒絶しかなく、それをするためにこの本を読んでいるのではなかったのか。
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