苦しくとも何事もなかったように[152/1000]

死んだ人間に安心感をおぼえるのは、これ以上裏切られて失望して傷ついて悲しい思いをすることがないからだろうか。

生きているかぎりは人間で、どんなに格好良く生きていても、慢心1つで卑怯者にも臆病者にもなる。死んで人間を終えたとき、初めてこの愚かさから解放され、生の完結と同時に人間という存在を終える。

だから私たちは、神に祈るような静謐な心持ちで仏壇や墓にお参りをするのではないか。

人は神の美しさを必要としているのではないか。

言葉以上の人間になれ。悲しいと言葉にするなら、その十倍悲しむがいい。苦しいと言葉にするなら、その十倍苦しむがいい。孤独で胸が潰れそうだと叫ぶなら、その十倍潰れるがいい。

言葉はエネルギーがないと発することができない。自己のエネルギーを言葉に昇華する形で言葉は発せられる。感情のすべてを言葉にぶつけることは清く美しいことだと思うが、言葉になった満足感の裏側に、何か大きな力がすっぽり抜けてしまった空洞のようなものを感じるのはどうしてだろう。

自己のすべてを言葉にぶつけるとき、悲しくも、言葉と同等か、それ以下の人間にしかなることはない。これはこの数年間で私自身が感じてきたことでもあった。

 

陰徳の価値と似ている。

徳行は密かに行われるものでなければ価値を下げる。これは人目につけばつくほど、ものの純度が失われるという宇宙原理だと思う。人目に晒されず忍ばれるものほど、エネルギーは凝縮されていく。徳を積んでも人目につけば、エネルギーは散らばっていく。

「葉隠」を口述した山本常朝は、筆録した田代陣基に「読んだら燃やせ」と言った。「一生忍んで思い死ぬことこそ、恋の本意なれ。」という言葉があるように、山本常朝は忍ばれることで守られる価値を知っていた。

武士は卑怯であることと、臆病であることを一番の恥とした。卑怯とはつまり、「陰<陽」の状態を指すのだと思う。人前では良い恰好をしても、陰で不相応な行いをしていれば、それは恥ずべきことだ。

 

1000日投稿は今の私には宿命となっているが、言葉を発する人間である以上、気を付けなければ自分の発した言葉以下の人間にしかならない。

言葉を発することをやめれば、陽は消え、陰の敷居も低くなるが、そんなことをすれば今度は臆病者となる。

いつの日か書いた「聖域」を思い出す。聖域をもって、自分の言葉を越えていかなければならない。

痛くとも何事もなかったように。苦しくとも何事もなかったように。

 

・涙は人間の聖域からしか生まれない[139/1000]

・迎合なんてするな。お前の魂はそんな安っぽいものじゃないだろ[140/1000]

 

精神修養 #62 (2h/132h)

耐えろ。耐えろ。ひたすら耐えろ。

零度。手と足が冷たくて肉体がひたすら拒絶している。しかしここで目を開ければ、修行にならない。寒いからとか足が痛いからとか、苦悩の度に瞑想を断念すれば、瞑想は魂の鍛錬という性質を失って、瞑想ごっこになってしまう。「毎朝毎夕改めては死に改めては死に常住死に身となる。」この精神を心の支えにする。

目を開けてしまおうか、断念してしまおうかという弱い心に、唯一打ち克てたのは、「今ここで断念すれば一生愛など知れない」という思いだった。実践できるのは今しかなく、今を差し置いて「いつか」できるようになるなんてことは絶対にありえない。今断念すれば一生成し得ない。

 

[夕の瞑想]

ひたすら清廉な魂を求めよ。こうして人目に言葉を晒している時点で、既に陰徳の価値は失われた。

言葉に残せばエネルギーは拡散する。人目に晒されれば、さらにその価値は薄くなる。

ここに残す言葉以上に陰を大切にしなければ、魂の成長はないと思え。

痛くとも何事もなかったように振る舞え。苦しくとも何事もなかったように生きよ。

臆病であること、卑怯であることを恥とせよ。言葉以上に生きよ。

 

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