昨日につづき、青森は弘前市の岩木山のふもと、森のイスキアのそばにいる。
佐藤初女さんは、森のイスキアを始めるにあたって、土地を探していたとき、この岩木山のふもとをすごく気に入ったという。
特に予定もないので、初女さんがいいと感じたこの土地を、2,3日ばかり滞在してみたいと思った。
あいにく、今日はいい雨が降っていて、けっこう寒い。予備に持ってきた冬物のフリースを羽織って、寝袋をかぶると、ようやく安心できるくらいの温かさになる。
広いトウモロコシ畑に、大きな岩木山、それから近くには温泉もわいているようで、昨晩は眠りながら、窓を開けていると、硫黄の香りがするのが分かった。
最寄りのスーパーまでは、車で20分かかる。山ごもりとまではいかないけど、自然に力があるこの場所は、俗世間から、いい距離にあるように感じる。
昨日、森のイスキアの前に別荘を持つ、おじちゃんと話をしたときに、夫の暴力に耐えられず、初女さんのもとに逃げてきたという女性の話を聞いた。
話の詳細は分からなかったが、女性は3日ほどゆっくり滞在して、それから元気になって帰っていったという。
「逃げてきた」という言葉を聞いて、その言葉が妙に、最奥地に位置する森のイスキアに、しっくりくるのを感じていた。
ここは逃げてくるには、いい場所だと思った。森のイスキアは、温泉をひいているらしく、家の中には、大きなお風呂があって、40度くらいの湯船につかることができたらしい。
初女さんという人間の温かさもあっただろうが、人を温める豊かな自然も、訪れた人に元気を与えていたことは、容易に想像できた。
逃げることについて、もう少し考えたい。
私は逃げることの是非に関して、明確な答えをもっていない。
自分の人生から逃げたくないと常々思っているが、本当に苦しくて、どうしようもなくなったら、逃げればいいと思っている。
しかしそのあたりは、すごく曖昧で、いつだったら逃げてもいいのか、逃げるとしたらどこに逃げればいいのか、みたいなことは正直分かっていない。
私はこれまでの人生で、数えきれないほど多くのことから逃げてきた。
人生で初めて逃げたのは、小学1年生の頃の、習い事で、毎週土日に通わされていたサッカー少年団がどうしても嫌になって、ある日、兄に連れられて歩いて通っているときに、一人逃げだした。
兄には「ダメだ」と止められたが、それを振りほどいて、逃げ出せたことは、とても清々しかったことをおぼえている。
高速道路を猛スピードで走行する、車の後部座席から、ドアを開けて飛び降りてみたいと、子供の頃ぼんやりと思っていた。
きっと車から飛び降りたら、グルグルと転がって、身体中きっと傷だらけになって、生きていられるか分からないが、それで立てたら、自由でカッコイイなと感じていた。
逃げ出したとき、それができたような感覚だった。小学1年生ながら、自分の気持ちを言葉にできた、妙な達成感があった。
逃げてもいいと知ることは、1つの救いになる。
しかし、逃げてもいいと知っても、逃げ場がないと、人は逃げることができないと思う。
「現実逃避」と「逃げること」は、似ているようで違う。
現実逃避は、苦しみから目を背けて、ごまかしているだけで、本質的な状況は何も変わらない。
スマホで現実逃避はできても、スマホで逃げることはできない。
逃げることは、もっと大胆で、ごまかさないことだと思う。
嫌なことを嫌だと認めて、苦しいことを苦しいと、ちゃんと声に出して言うこと。
自分の気持ちを言葉にして、自分を救ってやることだと思う。自分を救えるヒーローは、自分しかいない。
この森のイスキアまで、遠路はるばる訪れてきた人たちを想像しながら、そんなことを感じた。
現実逃避をしているとき、人は少なからず「逃げちゃだめだ」と思っているんじゃないかな。
本当は逃げたいけど、逃げていい確証が得られなくて、ただ小さく目を背けることしかできないんじゃないかな。
でも逃げることが、自分を救うヒーローになることだと思うと、見方は変わっていく。
冷たい世界から見れば、環境に馴染めなかった、弱者かもしれないけど、
温かい世界から見れば、正直で、勇敢で、賢くて、祈りのある、真っすぐな行動だと、私は思う。
さて、実は私は、ここに来る前、滞在を見越して「つがるロマン」という弘前の玄米を2kg、800円で買っておいた!
(東北といえば、あきたこまちのイメージが強くて、この品種は初めて知った!)
それから近くの湧き水も、20L汲んできた。
地元の水で、地元の米を炊く!私は今、この玄米が、楽しみで楽しみでたまらない!
雨が降っているので、森のイスキア周辺の、散策はあまりできそうにないですが、雨音をききながら、ゆっくり過ごそうかと思います!
ではまた明日!ばいばい!
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