もう傷は癒さなくていい。浄化の涙は、鎮火の涙。[255/1000]

過去に人間の心を探求していた私は、カウンセリングも当然学んだ。そして、過去の傷を追体験し、涙を流せたときに傷が癒えることを、身をもって体験した。一般に知られるこのカウンセリングは、心の傷に対する母性的なアプローチである。自分を受け入れ、過去に自分が本当に叫びたかった未消化の心をすべて赦すことで、赤子は大空に解き放たれる。

 

一方、父性的なアプローチもある。傷をグッと飲み込み、怒りと悔しさと悲しみを燃料に、復讐の炎を燃やすことである。復讐といっても、相手を殺すような暴力に走るのは、今日では許されない。誇り高く、名誉のために、「見返してやる」という一心で人間的なリベンジを果たす。これは反骨精神やなにくそ根性である。親の仇という言葉があるように、昔の人間も、傷つけられたら泣き寝入りするのではなく、復讐の中に自己を救済していたことを想像する。

 

大いなる宇宙には、父と母がいる。前者を義、後者を仁という。今日は、赦しと癒しが蔓延している。傷が癒えるときの涙は確かに美しいが、先ほども書いたように、これは母の愛に過ぎず、絶対唯一の手段ではない。今日、復讐が語られないのは、復讐が悪だと思われやすいからだと思う。実際、悪い言葉としてあらわれる。善良な人ほど、復讐を果たすには、優しすぎるのだと思う。

 

復讐は戦いである。戦後、国家間の争いが絶対悪となった日本人は、個人レベルにおいても、こうして戦いを退ける傾向があると思う。戦えない人間は、癒しに救いを求める。しかし、人類の歴史は、いつも戦いばかりだった。戦いの合間に平和があった。我々の体内でも菌は戦っている。社会では企業が戦いによって日々淘汰されている。自然界はいつも毒にさらされ、今日も我々は毒と戦っている。生きることは戦いだとしたら、復讐を果たすことも、自然のことではないだろうか。(もちろん時代の道徳によって裁かれる)

 

不良性を帯びる人間のエネルギー源は、戦いの炎だと思う。癒すことの浄化の涙は、鎮火の涙でもある。傷を癒し過ぎれば、心に燃え盛る炎を消してしまいかねないと思う。

 

私自身、毒を食らう思想を得てからは、苦しみに食われず、苦しみを食らい尽くせるように戦っている。そこで湧き出た疑問は、上述した過去の傷を涙で流せば、せっかく浴びた毒も一緒に流れてしまうのではないか、ということだった。浄化の涙が、鎮火の涙なら、炎に焼き尽くされている自分を救うことは、燃え盛る炎から不死鳥のように復活する自分の可能性を奪ってしまったのではないかと思うのだ。

実際、エネルギー保存の法則を考えても、傷も涙も暴力も全部エネルギーで、自分を苦しめることもあれば、原動力になることもあるだろう。憎らしくて、憎らしくて、ぶん殴ってやりたかったアイツを見返してやろうと必死に生きたあの烈しく荒々しい力は、涙を流した後どこかへ消えてしまった。

世の人間の熱が無くなるのは、こうした理由だ。癒される社会になるほど、力のない社会になる。

 

私は戦うことに決めた。もう傷は癒さなくていい。涙も流さなくていい。どうせ死ぬときに、すべては宇宙に還っていく。

それよりも全部食らって、食らって、食らい尽くす。文明に食われてたまるか。安心と安全と保障と権利と快楽の世に、飼いならされてたまるか。悪魔には屈しない。文明を破り、道徳を破り、常識を破り、初めて生命は息をする。もうそれしか、興味はないのだ。この魂を救済することしか、興味はないのだ。

荒々しく、烈しく、蘇れ!!!!!

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