森に金槌の音が響き渡る。鳥のさえずりと相まって、なんとも牧歌的である。最近、森に茶虎の猫がやってくるようになった。私がのこぎりを挽くのを遠目に眺めている。こんな森のなかまでやってくるのだから、野良猫というよりは野猫なのかもしれない。何か食い物をやりたいが、何もあげられるようなものはない。猫はしばらくこちらを観察したあと、昨晩私が煮物の汁を捨てた場所へいき、地面をなめはじめた。肉の臭いが残っていたらしい。猫は存分に地面をなめまわすと、何もなかったかのようにその場から立ち去って行った。
翌日、洗い物につかう金タワシが見当たらず、辺りをさがしていると、少し離れた位置でボロボロの状態で見つかった。おそらく猫のしわざである。タワシに残っていた臭いをたどって、噛みつきながら、なめまわしたのだろう。完全に私の落ち度である。だがそんな矢先、再び猫があらわれ、調理中の机の上に飛び上がるものだから、思わず怒声を放ち追い払ってしまった。
すぐに反省した。いつから俺はそれほど傲慢になったのか。強大な冬の森を、野良犬みたく生きていた一年前の自分なら、たとえ泥棒猫だろうと、同じ生命体として心強く感じただろう。人は野性が失われるほど、偽善的になっていく。自分が生きることしか考えられていないことに、まったく反吐が出そうになる。
それにしても、「泥棒猫」とは言っても「泥棒犬」と言うことはないのである。人間と犬の間には、狩猟と相棒の歴史を持ち、犬は文化的な見返りとして餌を獲得するが、猫には見返りを受ける手柄は何もなく、餌を獲得するには、人間の隙を見て奪うしかないからである。同じネコ科でも、ライオンやヒョウのように、自ら獲物を獲る動物は王者となるのだからまったくおもしろい。文化と力。この二つには通ずるものがある。
2024.12.3