【山ごもりDay2】肝心の部分から目を逸らないこと[86/1000]

山ごもり生活2日目は、壮大な朝焼けとともに始まった。

朝5時に起床して、東の空を見上げると、空が焼けているのが少し見えたので、見晴らしのいい展望台まで、猛ダッシュした。

 

岩手は遠別岳は、360度どこを見渡しても、山に囲まれていて、街が一切見えない。私がこれまで行った山には、どこかしらの方角に街が見えていたから、日本にもこんな場所があるんだなぁと嬉しい気持ちになった。(こんなところにも電波が届いているのが不思議)

 

カッコイイ男は、朝日がちょうど顔を見せた、ピークに立ち去ると思う。

太陽が少しずつ昇り、我々はその瞬間を今か今かと、じっと待つ。太陽が全部顔を出したとき、その瞬間を真っすぐ捉えたら、そのまま黙って場を立ち去る。

 

いいものと出会ったとき、早く立ち去ると、なんだか損をした気持ちになるから「もうちょっと見よう」とか「もうちょっとここにいよう」という気持ちになる。

しかし、そんな未練はバッサリと断ち切る。だらだら引き延ばさず、最高の瞬間を心に刻んで、最高の瞬間を持って帰る。

それで全部。それが全部だ。

 

【山ごもり瞑想記録】

<day1 朝>

1日目の朝。気持ちのいい天気だったので、瞑想は外で行い、太陽を身体の正面で浴びるように行った。

1時間通しでできる自信がなかったので、30分×2で行ったが、瞑想中は、一度も目を開かず、また姿勢を崩すことなく行えた。

 

瞑想は、そのままの呼吸に集中するアーナパーナー瞑想をした。

人工音の一切しない場所のおかげか、初日にしてはかなり集中できたが、それでも呼吸に気づいていられたのは、全体の10分の1もなかったと思う。

 

とにかく心がおしゃべりで、5秒もしないうちに、すぐに意識を持っていかれる。

蜂か何か分からないけど、虫が常にブンブンと私のまわりを飛んでいた。最初は気にならなかったけど、耳元5cmくらいの距離にきたときは、さすがにゾッとした。そのときの呼吸が早く浅くなっていることに気づくことができた。その呼吸にそのまま気づいていた。

 

瞑想法には色々あるけど、呼吸を操ることはしない。浅い呼吸になったら、浅い呼吸をそのまま観察する。なるべく意図を介入せず、ただ身体の状態をそのまま観る。呼吸の状態も含めて、ここにあるものを、そのままを観る。

 

瞑想終盤には、呼吸はゆっくり微かなものになっていた。身体に酸素が行き渡ったのだと感じた。

呼吸は操ろうとしなくても、身体の状態に合わせて、自然となるようになっていくのだと思った。この微かな呼吸に気づいていられるとき、いい集中ができている。

 

 

<day1 夜>

1時間のうち、2/3は胡坐の状態で寝ていたと思う。寝ている自分に気づく度、呼吸に意識を戻した。

この時間は、給食後の睡魔の中、受ける授業のようで、かなり苦しかった。

 

普通に集中しているだけでは、意識を持っていかれるので、集中に「鋭さ」を持たせることに努めた。

呼吸に最大集中する。それでも意識をもっていかれる。意識の鋭敏さが足りないのだろうか。それとも寝てしまうのは、体質だろうか。

 

思えば、最近はこんな風に意識を集中させることをあまりしていなかったように思う。

スマホの影響もあるかもしれない。しかし集中できる男はカッコイイ。集中できない男はカッコ悪い。

 

これからも夜の瞑想の時は、睡魔との戦いになるだろう。そんな時は意識を鋭く集中させることを課題にする。

意識を鋭く、研ぎ澄ましていく。睡魔はいい練習台だ。

 

 

病的なほど砂糖を摂取してしまう私は、砂糖断食をいつかやりたいと思っていた。

この山ごもりは、そんな場になりそう。

 

あれほど砂糖に依存しながらも、健康体(自称)を保っていられたのは、1日1食のおかげで、空腹時に身体の修復が行われて、均衡をとれていたからだろう。

このまま1日1食を維持しながら、砂糖断食を行えたら、自分を、自分のもちうる最高の状態にできる気がする。現に、まだ1日しか経っていないが、既に心身ともに軽く、肌や髪の質感も改善されているのが分かる。

 

以前、ここでも紹介した「食の多少は運命を左右する」で有名のルイジ・コルナロさんの言葉を思い出した。

ルイジ・コルナロさんは、極少食(1日1食)を実践された方だけど、著書「無病法」の中では、しきりに「爽快」「達者」「快活」「活力」という言葉が使われている。

 

私はその感覚を掴めずにいて、1日1食をしながらも、元気のない状態になることが多々あった。

自分でも、それは最後の詰めの甘さだと自覚していた。食を減らそうと、肝心の部分から目を逸らしていたら、その弱さは必ず、こうして形としてあらわれる。

まず、私が非常に幸福であることは、多くの者たちが証言できる。かれらは、私がすこぶる達者で、しかもきわめて快活であることを目の当たりにしているからである。

たとえば、なんの助けもなく馬に乗ることができるし、階段はいうまでもなく、山にもやすやすと登ることができる。気分はいつも陽気で、心が曇るようなことは一時もない。生への倦怠や生活の疲労など、私にはまったく無縁である。

 

小さな孫や知とは無邪気にたわむれ、大きい方の孫たちとは音楽を楽しんでいる。かれらはいろんな楽器を演奏することができる。また声もよく、歌もうまい。しかし、声の良さでは、私はかれらに負けていない。それに、私の声は人生で今が一番大きく、非常に朗々としている。

引用:ルイジ・コルナロ「無病法」

 

賢いことは、誇りだが、ずる賢いことは、恥になる。

親から授かったこの知恵を、どうせなら誇れる形で使いたい。

 

ではまた明日!まだまだ山ごもりはこれからだ!

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