8月いっぱいで畑の仕事を終えた。なぜ、あんなにも感謝されたのか分からぬまま。ひとえに、ご夫婦の人柄によるものだろう。だが、もし感謝される原因の0.001%が私にあるのだとしたら、己のすべてを仕事に捧げたことの他に、思い当たる節はない。”自分を死なせる”と言うと物騒に聞こえる。だが現実は、己を捧げられたときほど、人は生きる。そんな記憶は、死ぬまで心で燃えつづけ、放たれた波動は、永遠の運動律へ吸い込まれていく。
資本主義では、労働力の対価として賃金が支払われる。これで貸し借りは清算されるわけだが、”村”では、金にとらわれないエネルギーの貸し借りがあるように思う。金が支払われてはい終わりではなく、労働者が放ったエネルギー総体に対して労う心がある。頑張って働いたのに、冷えた金だけ貰っても、なんだか虚しい気持ちになる。本来、人に仕え働く歓びは、物質上(時間と賃金)のやり取りにかぎらず、存在(エネルギー)そのものでぶつかり合うところにあるのではなかろうか。
田舎に移住して、スーパーで働いても幻滅する。大資本家のもとにあるかぎり、田舎も都会と同じ、物質等価交換の原理で廻る。逆に都会だろうと、”村”の心がある職場では気持ちのいい風が吹いているにちがいない。
感謝は言葉にしない。言葉にして満足すればエネルギーは霧消する。同様に誠意も言葉にはするまい。やるべきことは、己のすべてを一日の労働に捧げるだけだ。9月から約束していた新たな農家で働く。気を引き締め、自戒を込めて。
2024.9.1
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