森で木こりをしている。今年の冬に寒さから身を守るための、ちいさな家をつくるためだ。昨年もひとつ小屋をこしらえたが、すきま風があちこちから入り込み、とても寒い思いをした。私の棲む森は、昼間でも陰っており、氷点下であることが多い。明け方は、マイナス15度まで下がることもざらにあるので、大げさではあるが、生きるか死ぬかの戦いを毎日強いられているようだった。文明は寒さを克服したが、私は文明の多くを手放していた。文明のはじまりともいえる、小さな火を起こすことだけが心の安寧を得られる手段であった。そうしてなんとか冬を生き永らえたが、今度は反省を踏まえて、家の機能だけでもしっかりしたものをつくりたいと思う。
今度の小屋も、3メートル四方にするつもりだ。鴨長明の方丈庵の考えを重んじる。カタツムリの殻のように、人一人が生活するに十分な大きさであり、必要なくなれば簡単に壊すこともできる。家が小さければ、予算も抑えられるし、掃除や、修理も最低限にすむ。また、暖をとるという観点からも、小さな家のほうが簡単に温まる。そういうわけで、小屋をたてる場所の整地をはじめたのだ。
木を倒せば、何十メートルもある高さから、何トンという物質が落ちてくる。下敷きになれば、即死となるか、けっしてただではすまされない。この肉体大事のご時世に、一歩間違えれば簡単に死んでしまうようなことが、一般人にも許されているのが逆に不思議である。
人間が扱うエネルギーの大きさと、そのエネルギーを人間が掌握できる確実性によって、仕事の危険度はあらわすことはできる。たとえば、ガソリンによって車が生み出すエネルギーは相当なものであるが、その力を確実に制御できるように、われわれは自動車学校で入念な指導を受け、車は2年ごとに点検される。弾丸を飛ばす銃猟師にしても、銃口を絶対人に向けないようにすれば、人を殺傷してしまうほどのエネルギーの制御は可能である。
その点、木は形状によって不規則な事態が起こりやすい。他の木にかかってしまえば(かかり木)、牽引道具を使わないといけない。道具がなく、知識もない素人は人力でどうにかしようとするだろう。ただでさえ重労働で、疲れてくると判断力も行動力も鈍る。突然、かかり木がはずれて、不意に落ちてくることもある。折れ、裂け、かかり、落ち、飛び、跳ねる。それが何トンものエネルギーによって増幅するから、普段なら怪我ですまされるようなことも重症となりうる。
そんなつもりはなかったが、つい怖い話になってしまった。だが、社会によって命が保障されているように感じるのは幻想だ。野生では、命は常に危険にさらされ、俺たちは自己責任のもとに生きている。己の死をだれかのせいにするほど、無責任なこともない。俺はまだこんなところでは死ねぬ。この世でやり残したことばかりである。これから作業に戻る。恐れずに、しかし気をつけて。
2024.8.22
コメントを残す