クリスマスに教会のミサに参加して後日思うこと[190/1000]
2日経っても教会で世話になった女性のことも、教会で過ごした崇高な時間もまだ心に残り続けている。神を自分の身に宿し、神と共に生きることはどれほど心強いことなのだろう。 女性はキリストの肉体を意味するパンを幸せ…
2日経っても教会で世話になった女性のことも、教会で過ごした崇高な時間もまだ心に残り続けている。神を自分の身に宿し、神と共に生きることはどれほど心強いことなのだろう。 女性はキリストの肉体を意味するパンを幸せ…
神との繋がりは、一対一でしか生まれないものだと思う。神社に行っても、必ず目を閉じ一人になって神に拝む。一人でなければ集中などできない。隣で人に話しかけ話しかけられるような状況においては祈りの純度は低くなる。祈りはいつも孤…
メリークリスマス。昨晩、諏訪湖沿いにある教会のミサに参加した。クリスチャンになるわけではない。純粋で透明なものに触れたいという気持ちだった。世界が水平的なもので溢れかえる中、垂直性のある信仰の場は貴重である。魂について多…
真っ白なまだ誰にも踏まれていないこの雪のようにただ透明でいたい。一杯の白湯の温もりに心が還っていく。世界に光が照らされる前の、薄暗い諏訪湖の畔をしばらく歩いた後、かじかんだ手を白湯を注いだ陶器で温める。こんな日々もいよい…
不確定に訪れる死は消極的なもの。消極的な不確定な死に積極性を帯びさせるには、やはり今日死んでもいいように今日を生きるしかないのだと思う。あらかじめ自分を死なせて法を身として生きることは、いわずもがな積極性を帯びる助けにな…
自分を死なせるという言葉を多く使いすぎると、死の緊張感は薄れてくる。こういう重たい言葉ほど、時と場所を見極めて慎重に使わないと言葉の本当の質量を見失いやすい。一方で、毎日死に光を当てることが習慣となるのはいいことに思う。…
自分を死なせるとは、自分が宇宙の中心にいるという認識を捨てること。宇宙の中心にあるのは恋の対象で、恋の対象を中心に自分は存在しているに過ぎないと認識すること。言い換えれば、自分を神の座から引きずりおろし、恋焦がれる対象の…
もし大切な人が、あなたを生かす代わりに、自分の死を選んだら、あなたはどう感じるだろう。どちらかの命しか生かすことができない2者択一を迫られる瞬間を昔から繰り返し想像してきた。そして大切な人を生かすために、自分は死ねるだろ…
身体が凍えても、目の前の相手が寒そうにしていれば上着をかけてやる。米がわずかしか残っていなくても、飢えている人間がいたらこれを食えと差し出してやる。命を顧みず飛び出して行く。そんな自己犠牲的な愛に純粋さを感じるから、我々…
自分を死なせるとか、物騒なこと書いていることは自覚していて、それでも懲りずに読んでくれる人が一定数いると思うと申し訳なくなってくるなぁ。この3か月は、武士道の強面といわれる山本常朝の「葉隠」に感銘を受けて、「武士道とは死…