お金がなければ生きていけないという漠然とした不安[6/1000]

神奈川県相模原市のアパホテルにいる。明日友人と高尾山を登ることになり、それなら前泊しようということで、宿を手配してくれた。慣れない街を3時間弱歩き、ようやく宿に辿り着いた私は、部屋に入るなり風呂桶に冷水を溜め、一気に飛び込んだ。3日ぶりの風呂に疲れはぶっ飛んだ!明日はブログが書けそうにないので、今から明日の分を書きます!

 

ビジネスホテルなんて久しぶりだ。私はどこかへ旅するとき基本的に「野宿できないか」という思考から入る。野宿できそうな場所が周辺になさそうだったり、体力的に野宿が厳しいときは、1000円以内で泊まれるユースホステルを探す。お金がないということもあるが、それ以上にお金を使わない方が感情が生まれる。その体験がどうしようもなく好きなのだ。

以前東京に原付で来たときは、上野公園で野宿を試みた。テントの中で目を閉じて、うとうとしていると、外から懐中電灯を当てられ、「ここで野宿はだめだよ!」と警備員に注意された。このとき、東京の公園が、深夜も警備員が徘徊するほど厳格な管理体制をとっていることを初めて知った。日本中の公園で野宿をしてきたが、追い出されることなんて一度もなかった。東京の管理体制は日本の中でも、群を抜けて厳しい。

どこでも寝られないというのは、私が東京を窮屈に思う理由の1つだ。そんなこと当たり前じゃないか。公園で野宿なんて駄目だ!と思う人もいるかもしれない。それは日本人の感覚としては普通なのだと思う。しかし、自然界ではまったくおかしな話だ。土地は本来誰のものでもない。陽が沈み、野に身体を横たえ、眠るのは、動物として当たり前の行動だ。その当たり前の行動が、当たり前にできないのが、我々の住む社会だ。眠ることには、お金がいる。お金がなければ、眠ることも許されない。私はこの管理体制がとても苦手だ。これでは「お金がなければ生きていけない」と漠然とした不安を抱く人が増えるのも無理はない。しかし、自然界から世界を見れば別の方法が見つかる。野宿も社会から見れば無法者かもしれないが、それは動物としてただ自然の中で1日の生命活動を終えようとしているに過ぎない。厳しさもあるが、優しさもある。お金を使わずとも、豊かさを享受できる方法は意外とたくさんある。私は家のない暮らしを1年ほどして色々学んだが、今はもっとそんな生き方を知りたい。

 

そんなことを思いながら、明日再会する友人のことを考える。東京の人間と交流するときはいつも緊張感を得る。彼は東京のど真ん中で働いている。私は長野や山梨の湖や山で自然に近い生活をしている。

朝は4時に起き、夜は8時に寝る。食事は1日1食で、粗食が中心となる。キュウリに味噌をつけて丸かじりする。これがとにかく美味い。最近は、醤油と酢で野菜を漬けることを覚えて、ブロッコリーやオクラ、ズッキーニを漬物にしたものを食べる。それでも足りないときは、オートミールに熱湯を注ぎ、塩と胡椒をかけて食べる。甘いものが食べたくなるときは、小豆を茹でて黒糖を混ぜ自分であんこを作る。あんこはパンにつけるなどせず、そのまま食べる。

生活も食事も、大部分は自然に寄っている。以前友人と会った時は、つい懐かしさをおぼえ、肉の塊を豪快に食った。そしたら一晩中、胃痛で苦しむはめになった。彼は何ともなかったように、隣でぐっすり寝ている。これが私にとってある種のトラウマになっている。身体が自然のリズムで動いていると、社会のものを拒絶することがある。しかし身体の能力は凄まじくすぐに順応する。

 

朝6時。さてこれから高尾山に登る。宿のベッドはふかふかだったけれど、2年近く車の中で寝起きしているので良く眠れなかった。既に自然が恋しいが、せっかくの東京だ!面白いこと探してみよう!

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