青森県南部町のとある田園地帯。朝5時前。動物の気配と変な声で目が覚めた。
外に出たら、空はまだ陽が顔を出す前で、朝焼けがとても綺麗だった。こんな綺麗な景色を見ると、朝から生きていてよかったと思える。
そして毎度、「こんな綺麗な景色を見るために、生きてるんだよな」って確認する。
「何のために生きてるのか分からない」って散々、路頭に迷うけど、これが理由でいいよなって、全部簡単に解決してしまう。
もちろんこれがすべてだとは思わないし、本当は答えを出す必要もないかもしれないだろうけど、少なくとも今は、この美しい景色を見て、感動している自分がいる。
生きることは、きっと理由1つで片付けられるような、ぺらぺらなものじゃないのかもしれない。
生きることには厚みがあって、今ここの生々しい感情や、今ここのリアリティある体験が、積み重なって束になっていくんじゃないかな。
だから生きる理由は、見つけるものじゃなくて、積み重ねるもの。過去や未来にあるものじゃなくて、今ここにあるもの。探求になくて実践にあるもの。
今ここにある、そのままの感情や体験が、命を彩っている。
そんなことを感じる朝、これから自給自足をされる、Tさんご家族のもとに戻る。今日もお手伝いをさせていただく!
1日が終わった。夜の22時。
ずっとお手伝いをしていたわけではなく、Tくんが4歳の誕生日だったので、ご飯を食べた後、一緒に花火をして祝った。
私からは、ドラキュラやお化けの小さな人形を4つプレゼントした。嬉しそうにしていて、とりあえず安心した。
今日もヘロヘロで、今すぐにでも眠りたいが、言葉はちゃんと残そう。
今日は、一人黙々と、小麦を手で一つ一つバラバラにほぐしていた。
Tさん家では、小麦の栽培も始めたらしく、私がバラバラに崩した小麦は、再び種として地面に帰るらしい。将来的に、さらに多くの小麦を収穫したら、今度は土に帰さず、製粉してパンをつくりたいと嫁さんは言った。
目の前に積み重なった、小麦の束を、手で1つ1つほぐしていく作業は、単調で果てしない。
しかし、この作業を飽きずにできたのは、私のまわりをウロウロする3匹のニワトリのおかげだった。
小麦をバラす作業に飽きてきたら、適当に1つの小麦をつまんで、ニワトリのもとに落としてやった。
落とした小麦を、ニワトリはクチバシにくわえて、カリカリと音をたてながら食べた。その音を聞くと、なぜか癒された。
ニワトリは行動範囲が狭いので、放し飼いをしていても、どこかへ行ってしまう心配がない。
臆病者のことを「チキン」というが、チキンとは行動範囲が狭いことに由来しているのかもしれない。
臆病者はバカにされるが、チキンなニワトリを見ると、健気でかわいくて、安心できた。
もしこのニワトリがどこまでも旅をするようなファンキーな旅人だったら、きっと小麦作業する私は、もっと孤独になっていただろう。
今日、ばらばらにした小麦を、種として土に帰すと聞いて、小麦は種なのだと初めて知った。
さらに嫁さんに話を聞いて、お米も種だと初めて知った。稲は草で、その種が米なのだ。米やパンを毎日食べる人は、毎日種を食べているということになる。
私は玄米が大好きでしょうがないが、自分が何を食べていたのか知らなかったことは、本当に恥ずかしい。
どんな暮らしをするかによって、何を知って何を知らずに生きるかは、当然変わっていく。
自然の中で暮らせば、米が種だなんて当たり前の事実だ。
しかし街で暮らして、スーパーの一画で袋詰めされたお米にしか馴染みがなければ、米はあくまで米なのだ(私の感覚)。
オーストラリアでヒッチハイクをしていたとき、山の中で家を自分たちで建てて暮らすご家族に泊めてもらったことがあった。
そこでおっちゃんが「Town makes people stupid(街が人をバカにする)」と言っていたのを思い出した。
今何となく、その意味が分かった気がする。お金をかければ、何も考えなくてよくなる。
これ以上は、もう書かないことにする。
1つだけ。最近私は、歯磨き粉を捨てて、塩で歯を磨くようになった。本当は重曹でもいいのだけれど、手元にないから塩を使ってる。
ここのTさんの家では、塩とハーブとナスの皮を焦がしたものを混ぜて、歯磨き粉にしているらしい。ハーブは香りにもなるし、ナス皮焦がしは、よりアルカリ性に働くから、かなりいい歯磨き粉だと思った。
ほんとうにおもしろいので、もし興味ある方は調べてみてね。
今日はもう12時をまわりそうなので、これくらいにしよう。
また明日!おやすみなさい~!
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