道徳家になどなるものか。[443/1000]

大工さんからもらってきたパレットを、森の家の床に敷き詰めた。このパレットを基礎に、近所の人が蔵を壊したときにもらってきた廃材を打ちつけていく。金がないので、もらえるものはもらって使い倒していくスタイルでいく。

 

廃材だけで家をつくったという強者が世の中にはいる。物があふれている昨今では、捨てられるはずだったものを再利用してつくりなおしたといえば、いかにも知恵者で、今風で、エコで、素晴らしいという見方が強まっている。しかし、最近の私はどうもひねくれているのか、そこに貧乏くささも感じるようになった。一昔前であれば、むしろそうした感覚のほうが普通だっただろう。手作り弁当では恥ずかしく、お店で買った弁当でなければ人に見られたくもない。

そう思うと、今は金のない人間に優しい時代である。人が捨てるような材木を使って、「セルフビルド」すればいいのである。高級マンションよりも、森の中にある小さな家のほうが贅沢だと思われることだってあるのだ。「手作り風」のものがかえって高く売られるように、下手くそなら、下手くそなりに、手作りの味だと言って胸を張っておけばよいのである。

私もその例外ではなく、街よりも森の家に惹かれた人間である。しかし、ふと廃材を見下ろしたときに、ふいに昔の感覚が呼び起こされたようであった。三島由紀夫の「不道徳教育講座」を読んでいる影響もあるかもしれない。捨ててしまうような廃材をもらってきて家をつくるなど、お前は聖人君子にでもなったつもりか。本当はこんな汚い材など使わずに、贅沢にもっと綺麗な材をつかいたいんじゃないのかと、不徳な声が聞えたのだ。

 

貧乏であるという発想ほど、自分をみじめにするものはない。私が廃材を使うのは、廃材を使って家を建てた人間と出会った影響が大きいが、そもそもの前提として、金がないから手に入るなら廃材をつかうしかないということもある。だが、金がないから廃材を使うと言えば、貧乏くさく、みじめになる。

だからここはひとつ、私は死を感じたいから廃材を使うのだと言い張ろう。今にも捨てられ、燃やされる運命をたどろうとしていた廃材は、死の波動を放っている。小綺麗にできあがった家よりも、廃材をつかった家のほうが、時の重みがあり、天への道がひらくのである。

現代の家(家にかぎったことではないが)は、死を感じない。何もかもが綺麗にできすぎて、生の衝動に満ちている。私はそうした家で生活していると、生命の運動が狂う感覚をおぼえる。実際そうした経緯から、家なし生活をすることになり、森に家をつくるに至ったのだ。

 

さあ、これで聖人君子にならずとも、廃材をつかう動機はできた。いったい今日は、自分でも何を書いているのか分かっていないが、ひとまず、己の善人性に打ち克ち、道徳家になどなるものかという精神であると、結論づけておこう。

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