森で目が覚める。夢の内容はだいたい、過去に出会った人間のことである。社長になった者もいる。結婚した者もいる。立派に仕事をして、趣味を充実させ、広く交友している者もいる。苦労を重ねながら子を養い、仕事に勤める者もいる。そんな彼らを思い出すいっぽうで、森で隠遁生活を試みようとしている自分を思い出すと「まったくつまらない人生だ」「俺はなんてつまらない人間だ」と哀しくなるのである。
森の冷たい空気のなか、哀しみに耐え切れず、「方丈記」を通じて鴨長明と語り合う。これが、しばしば起こる朝のパターンである。
7月になって仕事をやめ、森の家づくりをしていると、少しばかりであるが心に変化も訪れた。森の労働は大変だが心地よく、本を読むにも集中できる。2,3日分の食料を買い込んで、森でずっと過ごしていると、本来いるべき場所に帰ってきたことを少しずつ実感するのである。
仕事をしていたときは、いつも心のどこかに焦燥感がつきまとっていた。引きこもり鬱のときは、働いていなくとも、人生そのものに対し大きな焦りと絶望があった。この焦燥感は労働によって生まれるものではなく、俗世そのものにまとわりつくものである。成功や幸福、金や見栄を思うときに、生れるものである。
今の心の平穏を思うと、隠者の生活に少しずつ歩みを進めていることを自覚するのである。それこそ人生をつまらなくする大元であるが、私は運命より、このつまらない人生を抱き締めたいと思うのである。
森に入って一週間が経ったが、まだまだ俗世の執着に縛られているのである。一週間なのだから、当然といえば当然である。長明も30歳の頃はまだ俗世を捨てられなかったというのだし、人間の執着はそうやすやすと捨てられるものではないと思い知るのである。まだこれからどこに行くのか、自分でも分からない。まだ森の家すら建っていないのに、つい先々のことを考えてしまうのは、これもまた、俗世で染みついた”焦燥感”の癖にちがいないのである。
ひとまず今日も、森の労働を行い、家を建てられるようにしていくのである。ひとまず、そこに向かっていくのである。
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