自己の生存に必要な分量が分かると、生活における生存の不安は減る。金があるのに「飢え死にしないか」と不安に浸されることも、そのために自分を労働に虐げることも減る。「老後にはこれだけの金が必要」とは一般論に過ぎず、自己の場合に当てはまらないことを知るから。https://t.co/2BJW4RpaUk
— 内田知弥 (@tomtombread) June 9, 2023
江戸時代の人間は1日3万歩、歩いたと言われるが、今日は電車やバス、車やバイクのおかげで歩くことはかなり減った。田舎の人間は特に少なく、デスクワークの人間は1日3千歩も歩いていないと思う。原付家なし生活をしていた私も例外ではなく、朝起きたらすぐ隣の原付に乗って仕事に出かけて、仕事が終わったら寝床のすぐ隣まで原付で移動したので、野宿のくせにほとんど歩かなかった。
昨日、1週16kmの諏訪湖を歩くと、大体22000歩で3時間かかった。足にはいい感じの疲労感がたまった。毎日これだけ歩いたら、どんな人間も健康になるばかりか、太陽と風に爽やかな心持になり、血色も良くなって異性にモテ、運命も拓くだろうと、そんなことを感じていた。
交通機関によって、移動時間はかなり短縮されたが、余剰時間で何をするかと言えば、大半の人間はしょうもなくスマホを眺めている。余暇が生まれることによって幸福になると信じられていたが、余暇を幸福のために使うには少しばかり知恵がいるようだ。少なくとも私は、スマホを眺めている時間より、歩いている時間に本当の幸福を感じていた。ここにも、幸福のための遠回りが発生している。
2023年1月に、私はスマホを手放した。当時の私は、暇さえあれば1日何時間も惰性的にスマホを触るような依存状態にあった。今日できないことは人生でできるはずがないと思い立った私は、「このままだと人生の大半をスマホを見て過ごすことになる。それでいいのか」と自問した。それだけは断固として嫌だと思った私はすぐにスマホを手放した。ハンマーを振りかざし、破片が飛び散らないように布をかぶせ、ボロボロになるまで打ち砕いた、と言いたいが、実際は仕事の電話ができなくなるのが困るので、助手席の物入れの奥深くにしまい込んだ。代わりに本を読んだ。たくさん本を読んだ人生だったら、少しは誇れると思った。
半年たった今では、もうスマホはほぼ完全に不要となった。電話が必要なときと、たまに車でどうしても道に迷ったときだけナビを使ってしまう。ここはまだ、私の弱さが出ている。しかし、心理的な依存の話をすれば、もうすっかりどうでもよくなった。ある日突然なくなっていても、たぶん気がつかない。気分としては、生命がスマホの呪縛から解放され、大空に解き放たれ鳥になったようだ。それくらい爽快である。
読書の時間も増えたには増えたが、思いの外、ボーっと空や木や湖を眺めたり、自然の音を聴く時間が増えた。虚空を見つめることもある。これらの時間には大きな至福を感じている。いつもであればスマホを触って、絶対に生まれなかった時間である。ここでもまた、幸福の遠回りが起きていたのだと思った。
以上の経験から見ても、私は便利なものがあまり好きではない。便利になれば暮らしは豊かになると信じて、物は開発されてきた。しかし、その恩恵を受けられるのも最初だけで、当たり前になってしまえば豊かさを感じられなくなるばかりか、物がなければ不足感さえ感じる。参勤交代をしていた侍からしたら、新幹線は革命だろう。2時間半で、名古屋から東京まで移動すれば、将軍様も驚嘆したに違いない。しかし、今日ではそれは当たり前となって、名古屋から東京まで3日も4日もかけて歩こうなら、仕事は即刻クビである。スマホにしてもそうだ。現代人は、スマホが手元になければ、そわそわして落ち着かない。スマホを使わずに異国を旅することは、どれほどの勇気がいるだろう。もちろん、かつてはそれも当たり前だった。
便利なものは人類の生み出した智慧の結晶であるに違いないが、便利さのもつ悪魔的側面が、生命を飲み込んでいく。それが一般化された、普通の生活というものである。だからここでも、生命を救済するために、根源を問いたい。それは、本当に必要なものか。手にしたいものは便利さか。快楽か。それとも幸福か。
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