【保存版】そのままがある、そのままでいるという感覚について[27/1000]

「そのままがある」という感覚について書きたい。「ありのままでいたい」とか「そのままでいたい」みたいなことを感じている人にはヒントになるかもしれない。

はじめに言っておくと、僕のそのままがあるという感覚は、巷でよく聞く「ありのままでいる」とか「そのままでいる」という感覚とはまったくの別物だ。別物だったということを、昨日のブログを読んだ友人のメッセージから感じた。

(昨日のブログ↓)

 

友人は、3年前に僕がテント生活をしていた時、「そのままはそのままだけれど練習する必要がある?」という名言を残してくれた友人。僕から見る彼女は天真爛漫で、感覚派で、呼吸をするように、ただ美しく「そのまま」存在している。

彼女のメッセージは、「ありのままの自分、何ものになる必要もなく、そのままの自分であることが最高の幸せ」というものだった。

 

メッセージを受け取って、僕は「そのまま存在している」という感覚はあるけれど、「ありのままでいる」とか「そのままでいる」いう感覚とはちょっと違うんだよなぁと感じた。その違いを彼女に伝えながら、これをちゃんと言葉にしてみたらおもしろいなぁと思った。

すごく微妙な感覚の話だから、言葉1つ1つを咀嚼しながら、ゆっくり読んでほしい!

 

僕は、「自分がありのままでいる」という感覚ではなく、「自分のそのままが、そのままここにある」という感覚でいる。この違いは何なのだろうと昨晩考えた。答えの1つは、主体がどこにあるかだと思った。

「自分」がありのままでいるのか、「自分のそのまま」がただここにあるのか。僕の感覚は、後者のほうで「自分」という主体が存在していない。自分がそのままでいるというより、「自分のそのまま」がそのままここに、ただそのまま存在しているのだ。

 

もう少しかみ砕きたい。僕が感じる「自分のそのままが、そのままここに存在している」という感覚は、主体が存在しない。それは、海がそのままそこにあって、キスがそのまま群れで泳いでいて、雲がそのまま空に浮かんでいるのに似ている。似ているというか、まったく同じだ。ただ自然が、そのままそこにあるように、自分もまた自然の一部としてそのままここにある。もう本当にただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもないんだ。

 

感じていることや、考えていることも一緒。ただそのまま、僕の内に存在してる。

このブログは、いつもその瞬間に感じていることをそのまま言葉にするように努めている。僕が感じていることや、考えていることは、瞬間、瞬間で移り変わる。今この瞬間も、感覚が生まれて、そのまま存在している。その感覚をリアルタイムで、ぴったりだと思う言葉にして、この世に誕生させる。

 

昨日も書いたけれど、そのまま存在しているものに、良いとか悪いとかの価値基準が介入する隙はまったくない。海は悪い子!空はいい子!なんて言わないでしょ。海がありのままに波を打っているとか、雲がそのままに浮かんでいる、とも言わないでしょ。

自然のものに主体はなくて、良いも悪いもなくて、ただそこに、そのまま存在している。私たちの存在も、今この瞬間に感じていることも、まったく同じ!ただそのまま、あるに過ぎない。私たちがどうこうするものじゃない。

 

1つ坂口恭平さんの著書「よみぐすり」に書かれている言葉を紹介したい。

「下手な人ほど『作る』ことを自分の表現と思ってしまっているので、下手なものを作ることが恥ずかしいと思ってしまっている。僕は全く、自己表現という認識がない、むしろ知らないものが出てくる瞬間『時間の発生』だと思っている。

僕ではないのだから、見た目が悪かろうが、その新生命をただ観察するだけだ」

 

初めてこの言葉に出会ったときは、斬新な考え方だなぁと感心しただけだったけれど、こうして毎日ブログを書くようになってからは、この感覚が徐々に腑に落ちるようになった。僕の感じていることだけれど、僕ではないという感覚。

ブログの1000日投稿を始めても、不思議なことに一切プレッシャーはなく、「明日何書こう」みたいなことは一切考えない。その時の感じていることや考えていることを、そのままを言葉にするしか僕にはできないから、今この瞬間にいくら考えたところで、明日の自分のことなんて、分かりっこないのだ。

上裸で山に登って面白かったから、明日記事にしよう!と思っていても、翌日に素敵なお手紙をもらって感動すると、もう山のことなんてどうでもよくなってる。

 

瞬間瞬間で、自分は変わっていく。そして、今この瞬間にそのまま存在しているものだけが、僕にとってはすべてなのだ。明日はどんな記事が誕生するかもまったく想像できない。今ここに、そのままあるものだけが大事なのであって、過去とか未来とかは、僕の中ではもうどうでもよくなっている。

今だけがあって、今が最高で、今がベストで、今が楽しくて、今が嬉しくて、今ここにいる俺が俺で、今ここにいるあなたがあなたで、今ここであなたと出会えた瞬間が最高で、今がとってもかけがえがなくて、今がとっても幸せなのだ!

 

そのままは「いる」ものではなく「ある」ものなんじゃないかな。そのままの自分「でいる」じゃなくて、そのままの自分「がある」。そのままの自分でいるというのは、そのままの自分があることを感じた結果に過ぎないんだ。手段じゃないよ。結果だよ。

「ありのままの自分でいよう」とか「そのままの自分でいよう」みたいなときって、自分で何かしなきゃいけない感が出ちゃうと思うんだ。主体が自分で、手段になってるから。

 

「ありのままでいよう」とか「そのままでいよう」とか考えること自体、ナンセンスかもしれない。正直に言ってしまえば、考えなくてもいいって思ってる。考えてどうこうするものじゃない。自分の内にあるそのままは、そのまま存在しているから、もう本当に、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

自分に対しても、目の前の人に対しても、ただ、そのままが、そのままここにあるのだ。

そんな今を生きることが、ここにいる自分や、大切な人、目の前の人、出会った私たちに対して、最高に敬意を払える在り方だと思うな。

 

今日は「そのまま」を言葉にしたら、なかなか情報量が多くなったのと、ぜひこの感覚を共有したいので、要点をおさらい!

  • 「自分が」ありのままでいるのか、「自分のそのままが」ここにあるのか。僕の感覚は、後者のほうで「自分」という主体が存在していない。自分がそのままでいるというより、「そのまま」がここに、そのまま存在しているのだ
  • 「自分のそのままが、そのままここに存在している」という感覚は、主体が存在しない。それは、海がそのままそこにあって、キスがそのまま群れで泳いでいて、雲がそのまま空に浮かんでいるのに似ている。似ているというか、まったく同じだ。ただ自然が、そのままそこにあるように、自分もまた自然の生命としてそのままここにある。もう本当にただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ
  • 瞬間瞬間で、自分は変わっていく。そして、今この瞬間にそのまま存在しているものだけが、僕にとってはすべてなのだ。明日はどんな記事が誕生するか、もまったく予想できない。今ここに、そのままあるものだけが大事なのであって、過去とか未来とかは、僕の中ではどうでもよくなっている。今だけがあって、今が最高で、今がベストで、今が楽しくて、今が嬉しくて、今ここにいる俺が俺で、今目の前にいるあなたがあなたで、今がとってもかけがえがなくて、今がとっても幸せなのだ!

要点と言いながら、ほぼコピペでごめんね!笑 前後の文脈から咀嚼する過程で、感覚って伝わるものだと思うから、文章ごと共有するよ。

 

それから、新潟 柿崎のとむの家は、2022/7/25で一旦締めようと思います!なので、自然の中に帰りたい!とか生身の人間と話したい!と感じている方は、お早めにご連絡ください!

ただ、土日は人も増えてきて、僕はホームレスになりかけてます(泣)

【とむの家開放】自然と生身の人間にぶつかりたい貴方をお待ちしています!

 

今日はとってもいい天気になりました!これから海に飛び込んで、キス釣りするぞー!

というわけで今日はこの辺りで!ではまた明日!ばいばい!

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