母に頼まれ年末年始をかけてつくっていた物置小屋と塀が完成し、ひと仕事を終えた。物置小屋は0.6m×1m×1.8mの小さなもの、塀は高さ1.8m×長さ9.6mで、一緒につくった兄にとっても私にとっても大作であった。素人がつくるものとしてはこれ以上ないほどの出来栄えとなり、母もかなり嬉しそうであった。
穴を掘り、土台を埋め、セメントを流し、柱を立て、板をひたすら張り付ける。筋肉を動かすと肉体が喜ぶ。この冬は、呼吸と共にあるような魂の鍛錬を中心とした時間を多く過ごしていたので、肉体は置いてきぼりになりがちであった。天から授かった肉体をフル稼働させると、置いてきぼりになっていたものが徐々に戻ってくる感覚があった。
何かをつくると、心も身体も元気になるのは、この一致感が理由であろう。机上の仕事が中心となり、人に合わせ、やりたくないことをし、苦悩に耐えるうちに、身体と心は分離していくことはしばしば起こる。その歪みを整えるのは、読むことよりも書くこと、買うよりもつくること、聴くよりも弾くこと、観るよりも動くことにある。これは中村天風のいう「絶対積極の精神」の言葉に置き換えられるものであろう。消極性は心身の分離を生むが、積極性は心身を一致させるのだと思う。つくることは、心身を一致させ、心の向きを積極性にする肉体活動といえる。
初めて木工のおもしろさを知ったのは、中古で買った軽バンで暮らせるように、ウッド仕様に改造したときだった。汚れた白いボディを、爽やかなブルーに塗装しなおし、床は合板でフラットに、壁と天井は温かみを感じられるように杉板を張り付けた。当時は、鬱っ気のある弱った状態であったが、試行錯誤しながら車の中に家をつくるうちに、少しずつ元気になっていった。木工は無数の工程の積み重ねである。木材に下穴をあけて、ネジを止める一つの動作が完結した小さな成功体験となる。それが大きな物を作るうちに、無数に積み重なっていくのだから、元気になるのは自然なことかもしれない。
上手くやる人は、廃材を使って家を建ててしまうくらいだから、突き詰めれば、木材を買うこと自体も消極的である。しかしそれを差し引いても、木材にお金を使う喜びはかなり大きい。今回塀にかかった材料費は約2万であるが、業者に頼めば30万はかかるはずであった。破格で出来る上に、試行錯誤しながらつくる体験や、完成したときの喜びや愛着、さらに心の向きが積極性を向くという大きなおまけもついてくる。だからつくることに味をしめた人間は、楽しくてしょうがなくなるのだろう。
手づくりの暮らしに憧れる。何もかも自分で作れたとき、その喜びはどれほど大きなものなのだろう。そこに自由を感じる。
精神修養 #108 (2h/223h)
前々から予想していた通り、肉体が生の衝動に傾き、瞑想が困難になっている。少しの寒さに耐え切れず、目を閉じれば眠たくなり、意識が鈍くなっている。
美味しいご飯を食べることも、毎日湯船に浸かれることも、暖かいストーブで身体を温められることも、現代では当たり前の生活であるが、この当たり前が既に生の衝動の塊のようなものであるから、ここに馴染んでしまえば、肉体が生に傾くのは当然である。瞑想はひたすら死を目指すが、生に大きく傾いた肉体を死なせることは、肉体には大きな負荷がかかる。それを拒絶するのが冒頭で書いた肉体の拒絶であった。
年明けのことを考えると生じる恐れは、死への恐れだった。生一色に肉体が染まるほど、死に飛び込むことが怖くなる。身体が強張るのを感じる。緊張している。その緊張の一点を緩め、死に溶け込んでいきたい。緊張は生の側面から見た死との境界線である。死の側面から見ればそこには何も存在しないのではないか。
苦戦しながらも、なんとか一時間座り通すころには、意識も少しだけはっきりする。
コメントを残す