今年が静かに終わろうとしている。
朝、上裸になって庭に出ると少しヒンヤリとしたが、耐えられないほどの寒さではなかった。庭の水道をひねって風呂場から持ってきた洗面器に水を汲み、後ろの首元めがけて水をぶっかける。これを三度繰り返す。大晦日に水行を行うのは、1年の塵垢を落とす意味が神道にはある。確かに水は冷たかったが、過去に行った真冬の滝行と比べると、遊興のレベルであった。
自分を叩きのめした感覚はあまりなく、濡れた身体の水を拭いた後に、清々しさを感じている自分を見ると、我ながらタフな身体だなと思いながら、もっと浴びても良かったかもしれないと思った。不十分であったが、冷気と冷水にさらされて、肉体が温まろうと温まろうと活き活きし始める感覚には、健康の本質のすべてが詰まっているように感じていた。この感覚を得られただけでも、水を浴びた甲斐はあった。
中村天風が絶対積極の精神と言ったのは、真冬に上裸となり威勢よく水浴びをするような、威勢よく死に向かおうとする心持をいったのだろう。水を浴びれば肉体が活き活きし始めるように、振り子を死の方に蹴り飛ばせば、その反動で自然と生き返るのは自然の法だと思う。
病は気からと言う。元気があれば何でもできるとアントニオ猪木は言う。同じように、積極精神があれば世界に怖いものなど一つもなくなると思う。武士は死すらも積極精神によって乗り越えた。怖さはいつも、消極精神の裏に存在していて、最後の一滴まで消極精神を搾り取ってしまえば、まさに死身となってぶつかっていける。
諏訪湖の冬に思い続けていたことを一言で表せば「透明になりたい」だった。ずっと透明な存在に恋焦がれ、透明になる術を求め、透明になるためにこの身を捨て去りたかった。いつも自然に心を奪われてきたのは優しさと厳しさの中に透明感があったからだった。https://t.co/Sp7ol4RN9a
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 24, 2022
積極精神は消極精神を体外へ叩き出せば、自ずと体内に流れ込んでくるものだと思う。
人間の身体はよくできている。勢いよく水を浴びれば、肉体は自然と温まろうとする。何もしなくても宇宙からの授かりものとして、身体には免疫力や自浄作用が働いている。水を浴びるとは、自分を半殺しにして、免疫作用を呼び醒ますようなものなのだろう。
ちょびちょび水を浴びていても、消極精神は出ていかない。腹から声出して、勢い任せに何度も何度も水を浴び、消極精神は最後の一滴まで絞り出されていく。そこまで終えれば、私の仕事は終わりで、後は肉体を創造した宇宙の神秘に任せていれば、肉体は元気となり積極精神は体内に流れ込んでくる。そんな不思議な原理が働いていると感じている。
今年が終わる。一年の振り返りはやめておこう。既に人生の計画性はないようなもので、今年がどうだったから、来年がどうであるという話はなく、瞬間瞬間、死に向かって行動を紡いでいくしかない。行動の一点に関して言えば、十分とも不十分ともいえる一年であった。何より、生きて大晦日を迎えていることが、既に死ねていないではないか。完全に満足できるのは、本当に死ぬときであって、生きているかぎり、己の不十分さを認めざるを得ないのだろう。
いずれにせよ満足はない。しかし、既に動かなくなったこの一年が宿命として刻まれた事実には、誇りを感じていたい。今日を生きる我々はまた一つ年を越す。その尊い事実を祝う形として、今年最後の投稿を締めさせていただく。
精神修養 #105 (2h/218h)
・緊張していることに気づいて、寒さの中に溶け込んでいくと、ようやく生にしがみついた自分を死なせられる感覚を得る。
・緊張とは生の衝動に傾いた肉体が、死に向かう過程に生じるもの。緊張は、現在地が生である証明である。
・緊張と出会う時はチャンスだと思いたい。緊張は自分を死なせられるチャンスである。
・自分にこだわらないようにしようとするのが、既に自分へのこだわりであるという罠にかかりやすい。
・宮沢賢治の雨にも負けずが何度も頭に再生される。自分など勘定に入れなくともよい。透明な存在になることにひたすら焦がれている。自分を勘定に入れないという勘定がいつも邪魔をする。ただ透明になりたい。
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