時間を征服する虚無[519/1000]

まだ11月だというのに、森は吹雪で真っ白となった。

森の瞑想は深まる。俗世において瞑想を維持することができないのは、進歩と変化の生活の原理が、永遠と無為の原理と敵対するからだ。森においては生活が瞑想的となるも、俗世に戻った瞬間、森の瞑想状態は、即座に破壊されることになるだろう。

 

今日、西欧の民主主義に覆われると、進歩と変化は正義となり、人々の生活原理として権利を勝ち取った。物質が勝利するのは、人類史の宿命であったが、時間と変化に耐えうる精神を持たない東洋的な人間は、深い自然を求めて時間を忘却しようとする。私自身、そんな人間の一人であり、森に隠遁を求めたのであった。

 

だが、森の永遠に身を委ねていても、永遠への信頼が足りなければ、今度は変化と進歩にすがりたくなる現代人としての弱さが出てくる。現代人は、変化のない生活は、不安なのである。目標を掲げ、前に進んでいく。新しいことを、次々と始めていく。これを善とする価値観は当たり前になりすぎた。

 

一年の終わりになると、成長と変化を箇条書きする人間は典型的である。生への執着が強い人間ほど、この傾向がみられよう。換言すれば、無為への恐怖が強い人間だともいえる。生への執着が強い人間ほど、時間に救いを求めようとするが、時間についていけなくなったとき、時間に蹴落とされたときの反動は絶望的である。私はそうして絶望の杯を飲んだ人間だ。

 

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変化と進歩に心を委ねる。無の中に時間がすぎる絶望を、進歩のなかに邁進すれば、時間を征服した気にもなるものだ。私自身、こうして言葉を書き残すのも、神が従える時間という神的組織に対する、無力に等しい人間なりの抵抗である。この病にかかった人間は、死ぬまでおびえつづけるのだろうか。

進歩とは、勇敢に進む兵隊のようにも見え、いっぽうでひどく臆病にも見える。進歩が夢見る、世界共和国が誕生したとしても、きっと人間は、時間が無のなかに消えることに耐え切れず、苦痛と不満を見出すだろう。つまり、「進歩のめざす理想郷」こそが、永遠に届くことのない理想郷なのであって、われわれの本音は、じっとしていられないだけなのである。

神が死んだ今、時間を制するものは虚無だ。俺はこいつを直視したいと思うのだ。

 

2023.11.21

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