森へ逃げよ[501/1000]

森に家をたてて、隠遁生活をはじめたのが10月頭だったと記憶する。まだ1ヵ月しか経っていないのに、その数倍もこの生活を続けているような気分だ。

朝から晩まで、とにかく読書をして、それ以外の時間は、ご飯をつくるか、こうして手記にかかるか、なにもせず、森の木々や植物や昆虫をハンモックに揺られながら観察して、寒くなったら薪を割って、一晩越すための準備をする。また、意味もなく、もらってきた新聞紙やダンボールを燃やして、立ち上る火柱を眺めたり、手をかざしてみたりする。最近は、落葉がはじまって、森が黄色い葉っぱの海になった。屋根にもテーブルにも、本にも、いたるところに葉っぱが積もっている。

 

この生活の特徴も、散々書いてきたことであるが、大きな利点としては、精神生活が中断されないことである。朝起きてから夜寝るまで、ぶっ通しで書物に浸り、また翌朝から、昨晩のつづきをはじめられる。不幸か幸いか、電気が使えなくなったことによって、この傾向に隙が無くなった。哲学肌の人間や、精神活動を好む人間、読み書きや、真理の探究に第一の歓びを見出す人間にとっては、これほど素晴らしい環境はないと思う。

 

この期に及んで、つまらないことを言うが、頑強で屈強な精神を持たない人間は、環境の力を借りて、生命の野性を感化することは、環境の奴隷となるという点で屈辱感を受け入れなければならないことを除けば、自己生命の主たる行動として、決して後ろめたいことではないと思うのだ。

古今東西、人里から離れた山や、森という場所が、思想探究の拠点となっていた歴史を見ても、それは確かではないか。

 

ニーチェは、ツァラトゥストラに「森に逃げよ」と言わせている。生活の回転から抜け出すのは、容易ではない。回転は惰性運動を繰り返し、そのエネルギーを供給しつづけるのは、今の生活だからだ。だが、もし「森に逃げよ」の言葉にビビッとくるのなら、ツァラトゥストラをぜひ読んでもらいたい。

こんなことを言っても仕方がないが、私はどうしてもっと早く森に来なかったのかと悔やむことがあるのだ。この兆候は、森への憧れとして、いたるところに自覚していたし、もう少し思い切りがよければ、あと3年、いや5年は早く森に来れたかもしれない。

 

世間に背を向けて、山や森にこもるなど、身近な人間でいい顔をする人は誰もいない。あのイエスでさえも、大工の生活を捨てて、荒涼な山を歩いたときは、町の人間から非難を浴びた。しかし、そうした生活道徳は、生命燃焼の前ではとるに足らない問題だ。

ああ、私は何を書いている。隠遁生活を啓蒙するつもりなどなかったのに…。身の程知らずの言葉を、お赦し願う。

 

【書物の海 #31】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ

いまではあなた自身の血管のなかにも、腐って泡だち泥沼の血が流れているのではないか?そのため、あなたはそんなに蛙のような声をはりあげ、悪態ばかりつくのだ。

なぜ、あなたは森の奥にはいらなかったのか?さもなければ大地を耕さなかったのか?海には、緑をなす島々がたくさんあるではないか?

わたしはあなたの軽蔑を軽蔑する。また、あなたがわたしに警告するくらいなら、―なぜ、あなたはあなた自身に警告しないのか?

 

2023.11.3

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