空虚で単調な時間は、時間の経過が遅く、耐えるにも苦痛が伴うが、長期的に見れば、そうした単調な日々の経過は圧縮され、一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。一年の月日でさえも、一週間や一日として感じられてしまうこともあるのだ。
「生」に執着する人間は、ごっそりと消えた時間の行方に戦慄せざるを得ない。貴重な人生を、無尽蔵な虚無に飲み込まれてしまった体験は、このままの生活が、これからもこのまま続き、このまま死んでいくことを暗示するからだ。
500日前、私は新潟県柿崎の海にいた。目の前に立ちはだかる、虚無を前になすすべもなく、「時間」を一方的に虚無に与えてやるしかなかった。私は虚無に屈した。言葉にしてはならない畏怖であった。そして、私は己自身の振る舞いに神への冒涜を感じてならなかった。「時間」は生命と大地に還されるものであったからだ。
そうしてはじまったのが、この手記である。「時間」を紙に投写することによって、「時間」を引きとめようと試みた。勝算はなかったが、何もせず一方的にやられるよりは、何かをしなければならなかった。
無論、500日前はこんなことを理性で捉えて、冷静に行動に移したはずはなく、前述したように「このまま死んでいく」感覚にゾッとしただけである。しかし、蓋をあけてみれば(今日で半分開けたことになる)、なかなか善戦していると言える。当初の宿敵であった「虚無」、そしてその輩下である「生の不安」「生の倦怠」までも表舞台に引きずり出し、戦場に巻き込んだ。
これまでの戦いは、必ずしも猛々しいものではなく、時には情けなく、卑劣であり、私は過去の手記の数々を見返すことすら恥ずかしいのだ。だが、敵も知らぬまま闇雲にはじめた戦いも、今では戦況を鳥の目で把握し、どうすれば戦いに勝利できるのか、見通しまで立てられるようになってきた。
今後は、この戦いに、神と悪魔も加わることになると直感する。ゆえに、戦いはスケールを増し、死ぬまでつづくだろう。あと500日経っても、全体から見れば、戦いの序章だったにすぎないかもしれない。これが、500日経った、今の感覚である。
戦いはつづく。死ぬまでつづく。そう思うと、残りの500日も大したことないと思えるから不思議である。どこまでやれるか。さあ、時間を己の手によって引き留め、永遠に還せるか。
【書物の海 #30】魔の山, トーマス・マン
人類は暗黒、恐怖、憎悪から出発したが、輝かしい道程を経て、共感、清澄な心、寛容、幸福という究極段階へと前進し、向上していっているのであって、この道を進んでいこうとする者にとってもっとも速い乗物は工学だ、と彼は言った。
上巻700ページ、下巻800ページあり、内容もずっしり重い。ドストエフスキーの「罪と罰」でもそうだったけれど、主人公が熱病にかかると、私まで頭が重くなり、フラフラしてくるのだから、不思議である。とにかく重い。かなり重い。しかし、この山を制覇すれば、新たな景色が広がっているだろうという、直感だけはある。
しばらくは、「魔の山」と対峙する日々がつづきそうだ。
2023.11.2
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