今日も太陽が昇った。つめたく、フワフワと気持ちのよい風に全身を包まれる。
目の前のイチョウが気持ちよく揺れるのを眺めながら、今日も、ここにあるそのままを言葉にしよう。
昨日、山梨は小淵沢のとむの家に来客があった。
訪客のRさんとは、雲がぷかぷかと浮かび、ただ風に乗ってそのまま流れていくような穏やかな時間を過ごした。
基本的にとむの家では、今ここにあるそのままを大切にしているので、何をするとかの決まりはない。予定は決めていないし、一人になりたくなったら一人になってもいい。話したくなかったら何も話さなくていい。
そのままに、良いも悪いもなく、ただ自然と同じように存在している。私も客人も、自然と同じだ。
そんな感覚でいると、相手が発した言葉に、自分勝手な解釈で土足で踏み込むこともなくなる。相手の言葉も、自然と同じだ。
風が吹いたら、私たちはただ風を感じる。気持ちよく良い風がふいたからといって、気の利いた返しをしようとはしない。
言葉も風と同じ。気の利いた言葉を返さなきゃみたいな姿勢でいると、自分ばかりに意識が膨らんで、言葉を風のように、そのまま受け取れなくなってしまう。
正直な言葉を交わし合うことが、最高の会話だと思うけど、受け取った感覚にぴったりな言葉を見つけられないときは、相手の言葉を静かに眺める。
傍から見れば、沈黙の多い会話に見えても、我々の間には、ただ風を感じているように、そのままの言葉を感じている。
私にとっての、昨日のRさんとの会話は、そんな感じだった。
今ここにあるそのままを、リアルタイムで大切にしているとむの家だけれど、一応は、とむの「家」なので、私はできる限りおもてなしさせて頂くスタンスでいる。
昨日は、新しく客間にした荘厳な湧き水の森や、かつてハンモックや鍋をしていてた秘密基地の森、それから南アルプスや富士山を一望できる丘に彼女を案内した。
山から流れ出る湧水を飲みながら、彼女は「いつも素の状態でいたい」と言った。私は彼女が、今この瞬間、素でいるように感じたので、「僕はRさんが今、素でいるように感じる」と伝えた。彼女もそれを認め、今は素でいられていると言った。
これはもはや私の口癖になっているけれど、「今この瞬間元気かどうか」しか私には興味がない。昨日はもっと元気だったとか、明日になったら元気になるとか、そんなことよりも、世界は今しかない。今元気がないなら、今元気のない自分がすべてで、元気のない今の自分が最高なのだ。
素でいることも同じなんじゃないかな。
確かに、街に出れば、自然の中でいるよりも、素でいることは難しくなる。人目が多くなれば、よく見られようとする意識は自然と働く。
しかし、素でいらなかった過去を過大視したり、素でいられないかもしれない未来を憂慮して、今の自分に”素でいられない人間認定”をしてしまうのは、あまりにも酷だと思う。
今この瞬間、素で生きているなら、あなたは素で生きる人間だ。理想だと思うような自分も、既に今、そんな自分を生きているだと思う。
今は一人でいるから自然体でいられるだけだとか、今は自然の中にいるから自然体でいられるだけとか、言いたくなるのも分かる。
しかし、その理屈をとおせば、街で自然体でいられないのも、たまたま人が多すぎるからで、たまたま自然の中にいられていないからということになる。
結局、今しかない。今、素でいられているのなら、それが今の私たちのすべてなのだ。
私の発案で、丘の上でパンを食べることにした。Rさんの発案で「山の上のパン祭り」を開催することになった。
山に登ってパンを食べるという行為1つでも、「祭り」と命名するだけで、体温がグッと上がった。私はこの現象がとても面白かった。
私の最近のテーマが「遊ぶ」ことで、まさにこの1000日投稿も遊び、というのは最近のブログでも書いたとおり。
何もない運動場に線を引くと、かけっこやドッジボールができるようになるのと同じで、何もない人生に、目標という線を引いて、遊びを始めた。
Rさんが「パン祭り」と命名したとき、遊びとは「色を付けること」だとも思った。
山に登ってパンを食べるという行為は、無色でありきたりだが、「祭り」と命名するだけで、血気盛んなものなる。
祭り以外でもいい。「山の上のパン大会!」みたいにしたら、内容はともかく、ちょっと勝負ッ気が混ざるし、「山の上のパン品評会!」みたいにしたら、食べ比べみたいなことが起きる。
言葉遊びをしようということではなく、どうしたらもっと楽しくなりそうかみたいな心持ちでいると、自然とそんな発想も生まれてくるのかもしれないと思った。
運動場に線を引く行為と同じように、自分なりの色を足してあげるだけで、心持ちはガラリと変わる。
私は想像してみた。毎日が祭りだったら最高だと。
今日も祭りで、明日も祭りで、明後日も祭り。毎日、ワッショイワッショイ踊れたら、なんだかとっても楽しそうじゃないか!?
遊びはなくても生きていけることだから、働くようになって子供心を忘れると、一番最初にそぎ落とされちゃう部分だ。
でも、遊びのない人生は、やっぱり無味乾燥すぎるよ。コーヒーも紅茶も飲まずに、ずっと水ばかり飲んでいるようなものだ。
私はまだまだ遊び始めたばかりの初心者だから、、、と書きながら、いや違う。
……俺は遊びのプロだろう!と思い直した。
私たちは皆、子どもの頃は、ずっと遊んできたのだ。既に遊び心は、ここにある。
遊んで楽しく生きたいと誓いを立てた瞬間から、誰しもが遊びもプロなのだ。
下山後、「Rさんと過ごした1日は、僕にとって祭りだった」とRさんに伝えた。
いい出会いは、そのままが祭りになると思った。
とむの家は引き続き、開けております。
……が、一旦は家を空けるので、もし来たい方がいれば、「今家在りますか?」とご連絡ください!
タイミング合わせて、お会いしましょう!
では今日はこの辺りで!レッツお祭りフェスティバル!
また明日!ばいばい!
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