慈悲の雨は皆に等しく降り注ぐ。一人前に傘も持てない人間はずぶ濡れになる。身体は冷えるが、両手を天に広げるとき、これが慈悲の雨だと知るのは時間の問題だろう。慈悲の雨の恩恵を多く受けられたのは、傘を持てなかったからでもある。
寅さんの夢を見た。(変な夢であるがご容赦いただきたい。)寅さんが旅に行ってしまうということになり、私と妹さくら(夢ではさくらは私の妹ということになっていた)が旅立とうとする寅さんに挨拶をする。寅さんは祝福を与えるように、私の両頬にキスをした。このやり方はいかにも海外のものらしく、キリストの愛を感じるものだった。妹のさくらにはずいぶんあっけなく、キスはせず、2,3言葉を交わすだけだった。私は妹さくらに、お前は亭主をもつ婦人だから、寅さんはお前に触れまいと気遣ってくれたんだぞと野暮に話すと、それを聞いた寅さんが次のようなことを言った。
さくらには帰る家があり亭主も子供もいる。苦労はきっと多いだろうが幸せにやるだろう。対してお前はどうだ。俺と同じく堕落している。俺は堕落の苦労だけは知っているから、堕落した者にはより多く励ましてやらねばと思ったんだよ。
ルカの福音書7章36節「罪深い女を赦す」の話を思い出す。
イエスが食事をするところ、売春婦の女がイエスを訪ね、イエスの足を涙でぬらし自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗る。まわりの人間は売春婦に嫌悪感を示すが、イエスはこのように言う。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
金貸しを多く愛するのは、多くの借金をチャラにしてもらった方である。この例えと同じように、多くの罪をつくった人間が信仰によって天に赦されるとき、ここに生まれる愛はその分大きい。赦されることの少ない者は、愛することも少ないが、赦されることの多い者は、愛することも多い。
孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。
坂口安吾, 「続堕落論」
続堕落論に登場する、キリストと淫売婦はルカの福音書7章36節を指しているのだと想像する。私は安吾の言うことが、最近胸に染みる。イエスの足に涙を流しながら接吻した女を見て、深淵に横たわる深い孤独と、そこから真っすぐ天に伸びていく道を感じる。
堕落は肯定した瞬間、罪の意識は消え、堕落ではなくなる。それはもう動物と変わらない。堕落はいつも拒絶される。毎日のように堕落について書くここでも、決して堕落を肯定できないのだし、それはつまらなく、悪でしかない。
もし堕落することがあるなら、自分を拒絶するしかなく、拒絶の苦しさと、誰にも理解されない孤独に、最後には神に赦しを乞うしかなくなる。深い苦しみを抱える堕ちきった人間を、善人は軽蔑する。彼らは悪人なのだから、仕方のないことだ。しかし、堕ちた人間の苦しみと深い孤独を思うと、その耐えうる強さには心から敬意をはらいたい。
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