孤立と孤独は似ているものとして扱われ、その定義もあいまいなものであることが多いが、これは現代の物質主義が、垂直方向の感度を失い、水平方向でしかものをみられなくなったからである。孤立と孤独は、神は存在するか否かを問題の本質とし、本来は対極に位置するものであると私は理解する。
孤独は信仰によって生まれるものである。我と汝、自己と神との関係において、天とつながることで人間は孤独となるのだ。弟子に裏切られ磔にされながらも、神の愛を信じたイエスは孤独であった。恋闕の情を抱き、天皇を恋慕った日本人も同じく孤独であった。孤独な人間に透明感がそなわるのは、魂の価値を信じる強さによって物質としての自己が弱くなるからである。精神性が高まるほど、人間は透明となる。
いっぽう、信仰を失い天から切り離されたとき、人間は孤立する。孤立とは、天から断たれた状態をいう。物や人に囲まれていても、信仰がない状態であれば孤立しているのである。一人でいるとかいないとか、そんなものは物質的なものの見方にすぎない。孤独は、物質を問題としない。物や人に囲まれていようがなかろうが、どっちでもいいのである。天を仰ぎみることによってのみ、拭いきれない寂しさから脱し、宇宙とのつながりのなかで孤独となるのである。
何を考えるもなく、孤独について書き始めたが、昨日、「家族」について書いたものを読み返すと、その理由が分かった。私の思う「家族」とは、孤独の上に存在するものなのだ。子も親も祖父母も、皆が孤独である。亡くなった祖父母や、先祖の墓参りをするとき、霊と対話する。神社で、氏神様にお参りをするときも同じである。私は家族で墓参りにいく時間が好きであった。それは、霊との対話をつうじて、家族の皆が孤独となる瞬間であり、現世の家族とも深いつながりを得るからである。私はこの家族観が、日本人の幸せに深く根付くものだと信じている。墓参りや神社の参拝を大切にする家族は、深いもので結ばれていると感じるのである。
私はこの「家族」の温もりが地域に清流として流れることを夢を見ている。それが私の思う日本の平和な姿であり、虚無の冷さに耐えきれなくなっている現代人が、真に欲しているものであると感じる。
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