憧れは流体である。淀みなく宇宙を流れるエネルギーである。それはいつも流れていなければならない。決してせきとめようとしてはならない。せきとめた途端、憧れは欲望に変わり、永遠の水は腐り、虚無に堕ちてしまうから。
いよいよ、森の家づくりに着手し、初日で柱が立った。柱が立つだけでも嬉しいものである。広さは鴨長明の方丈庵にならって3メートル四方にした。9平米の広さであるが、実際に柱の内側に立ってみると、ものすごく広く感じるのである。いかんせん、これまでの居住スペースが、1メートル強と2メートル弱の軽バンの中だった。満足に立つことすらできない空間のなかで暮らしていたのだから、天井や壁を気にせず立つことができるというだけで、これ以上嬉しいことはないのである。
なかでもいちばんの愉しみは、壁一面をぜいたくに使って、大きな本棚をつくることである。これはささやかな夢である。車で暮らしているうちは、読みたい本があっても置き場がなく、なるべく我慢してきた。この森の家の使い方は、ロウソク1本が照らす深い闇の孤独の中で、自己の生命の輪郭を鷲づかみにしながら、書物と魂の交流を図ることが中心になるだろうから、文字どおり本に囲まれた暮らしになることは、とても愉しみである。
ここから先は、桁→梁→真束→棟木→垂木→屋根という具合にすすめていく。呼称が分からず調べてみたが、ほんとうはこんな用語は、どっちでもいいのである。日本の伝統建築の価値は重んじる。しかし、私のつくる家はそんな大それたものではなく、カタツムリの殻のように、人ひとりが最低限の暮らしをするためにつくられる貧しい家である。雨風と寒さをしのげ、欲を言うなら、窓から外の光をのぞむことができれば、それで十分なのである。
夢は形になってしまえば、それはもう夢ではない。森に家が建つにつれ、その先に待ち受けるものを想像するのが怖ろしくなるとき、オーストラリアの横断を教訓として思い出すのである。オーストラリアの東の海から昇る朝日を見たとき、宇宙に流れる美しい流体を、私はせきとめてしまった。同じ過ちは繰り返さないことである。人間は、死ぬまで届かないような憧れを、抱きつづけなければならない。夢は叶えても叶えても、永遠に届かないものである。死んではじめて、その放射のなかを旅することができるのだ。それはきっと虹の軌跡を飛んでいくような、素晴らしいものにちがいない。
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