神との繋がりは、一対一でしか生まれないものだと思う。神社に行っても、必ず目を閉じ一人になって神に拝む。一人でなければ集中などできない。隣で人に話しかけ話しかけられるような状況においては祈りの純度は低くなる。祈りはいつも孤独を必要とする。https://t.co/k0Orr2Tvs4
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 25, 2022
クリスマスイブに人生初のミサに参加した。翌日クリスマスにもミサに参加することにした。繰り返しになるが私はクリスチャンではなく、洗礼を受けるつもりも今のところない。純粋な信者からすれば、洗礼を受けるつもりのない人間が何度も教会に足を運ぶのは目障りかもしれないが、魂を重んじるかぎり(観光でなければ)、信者であるか否かは大きな問題ではないようにも思えた。(問題とする捉え方もあるかもしれないが)
なるべく邪魔にならないように、昨日と同じ後方の端の席に座っていると、昨日の女性が再び私の隣に腰を下ろした。挨拶を交わした後、昨日世話になった礼を述べ、貴重な祈りの時間を邪魔して申し訳ない気持ちと、今日はミサが始まったら自力でついていく心づもりを伝えた。女性は私に自分の式次第を貸してくれた。本当に親切な方だった。
二度目のミサも、昨日と同じ流れで進んでいった。開祭の儀、聖書の朗読と司祭の説教、感謝の祭典、交わりの義、閉祭の儀。ミサの構成は美しく二度目の参加であったが全体の流れについていくことができた。司祭の説教は聖書がベースとなっているが所々笑いを含む言葉もあった。堅苦しい必要はなく、体験に基づいてある程度自由に話しているようで、司祭によって説教に個性が生まれるように感じた。司祭は次のようなことを話していた。
・神は天から私たちを見ているのではなく日常の喜びの中にいる。子供が生まれた時は大きな喜びに包まれたはずだ。それは神が幼子としてここにいるということではないか。
・司祭が結婚できないことの悲しみは、子供を持てない悲しみだ。子供や妻のために生きる人生は、自分のために生きる人生よりもいいものである。
2日間を通して最も印象に残っているのが、聖体拝領だった。信者はパンとぶとう酒をいただく。パンはキリストの肉体、ぶとう酒はキリストの血を意味する。パンとぶとう酒は荘厳な器に盛られ、祭壇に奉納された後、司祭がまずパンとぶとう酒を頂き、それから信者が一列に並び、司祭からパンを受け取る。
忘れらないのは、私を世話してくれた女性のパンを口にするときの幸せそうな顔だった。全員が幸せそうにパンを口にしているわけではなく、真剣な表情で口にする人が大半だった。その中でも彼女はとても嬉しそうにパンを口にした。
思えば、信者でない人間にとっては、ただのパンでしかないが、彼女にとってはキリストの御身体をいただいている。信仰するキリストをいただき、キリストと一体になって生きていくのは、これ以上ない喜びなのだろう。神が自分の内に入ってくるのは、どれほど心強く幸せなことなのだろう。
神聖な場に立ち会わせて頂けた凄くいい時間だった。
自己の命を、自分だけのものから、信じるものに同化させていく過程をいう。自分の命を武士道に注ぎ込む。だから信じる心が頂点に達したとき、自分は死に、武士道と同一となって生きる。何かを信じるとは、対象の魂と一体になるということ。それはつまり自分として生きながら、同時にキリストとして、釈迦として、武士道として生きることなのだと思う。
精神修養 #100 (2h/208h)
・今日を精一杯生きて、死に向かうことのできた自分は、悔いを残すことなく宇宙に還っていく
・今日を生きた自分が成仏していくような感覚。絶えず生きているようで本当は生と死を繰り返しているんじゃないか。
・死身となるのは二者択一の場面で死ぬ方を迷うことなく選べるようにするため。なぜ死ぬ方を迷うことなく選べるようにするかといえば、恋焦がれる対象のために生きるためである。ゆえに対象を見失えばゾンビと化す。対象に恋焦がれて死身は生きる。
・自分の命のすべてを奉げられる対象を持つことほど幸せなことはないのだろう。
・天との対話は一対一でなければ行われない。導きはいつも静寂のいちばん深い所にあるものかもしれない。
コメントを残す