傲慢で汚らしい欲望にまみれている[304/1000]

あれもほしい、これもほしいと、気づかぬところで欲望は膨らんでいく。いったい弁えというものは、どこへ行ってしまったのだ。

 

山林探しは難航する。第一に、自分が傲慢で、汚らしい欲望にまみれているからである。日陰と日当たりを同時に欲し、人里と山奥を同時に欲し、危険と安心を同時に欲している。矛盾だらけの欲望を一刀両断することができないから、両極端に振り回され、右に引きずられては左へ引きずられ、結局元の位置にただ疲弊して戻ってくる。

選択の自由があればあるほど、自分がこの自由を扱えるほど優れた人間ではないことを自覚する。もし神様が私に土地を授けてくれて、「お前に選択の余地はない。ただこの山を開拓して生きなさい」言われたら、比較や後悔とは無縁の一生で、がむしゃらに山を開拓し生きていくことに集中できるだろう。制約はあっても、制約の中に自由があるのであって、人間に扱える自由はこの種の自由が精一杯のものではないのか。

 

自由そのものを扱うのは、神の御業であって、人間のなせる業ではない。この領域に足を踏み入れたから、原爆や原発が生まれたのではないのか。一瞬で大勢の人間の命を吹き飛ばし、大地を汚染させて生き物が住めなくなるなんて、非人道的も甚だしく、決して人間が足を踏み入れていい領域ではなかったはずだ。

 

生命の大きな自由に不自由を感じ、時としてより大きな存在に、ただ服従していたいと思う。自分で決められず、誰かに決めてもらったほうが楽なのは、必ずしも自分で責任を負いたくないからではない。本当は自分が自由を行使するに相応しくない存在であることを知っていて、神のような絶対的な権力の前にひれ伏して服従したいのだ。ひとつのものを堅く信じて、ただ運命に従順な子羊となれば、罪の意識からは解放される。

 

ただここでも、私は傲慢であることを認めなければならない。自ら足枷にはめられに行きながら、足枷にはめられたら「足枷から自由になれたらいいのに」とわめくに違いない。傲慢なかぎり、いつも現状に対する不満と文句が生まれるのであって、傲慢な自分を恥じるなら、今あるそのままの苦痛を受け入れるしかない。この大きな自由を行使しなければならず、ここに生じる責任も、罪の意識も、恥の意識も、すべてを運命の結果として受け入れなければならない。

 

きっとどの山林に落ち着いたとしても、自由を自分で行使した罪として、己の傲慢さを必ず恥じることになる。きっと罪の意識にも駆られる。しかし、もうこればかりはこの時代に生きる以上は仕方がない。道を踏み外して生きる馬鹿な人間は、己を恥じて、罪の意識に苛まれて、悪人として生命を生かしていくしかないのだ。

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