川沿いの桜並木道を、永遠の風が吹き抜ける。
永遠を感じることは、死を想うことと同じであろう。
美しく咲く桜を見て、同時に儚く散る桜を想い描く。
美しさが包む死と、死を包む美しさに胸は打ちひしがれるのだ。
日本人として生まれ持つこの繊細な感受性に苦しめられるも、
その裏側では死を汲み取ることができるほどの心を育んでいる。
自然豊かな四季に恵まれたこの日本の大地に生まれ落ちたことに、
どうして運命を感じないでいられようか。
万葉の頃からずっと、我々は詩の心で涙を拭ってきた。
儚く散っていく自然の中で永遠の命に触れて、
すべての悲しみも安らぐような心地よい風が、
人々を遠い彼方まで運んでゆく。
花を見るときは、一度も虚無を感じたことはない。永遠ではない命に、永遠を感じている。かつて戦争で命を落とした祖先は、死んだら靖国の桜の花びらとなってまた会おうと戦友に言葉を残した。その心は今日の人間と同じように、儚い桜の美しさに永遠を感じていたと想像する。https://t.co/TCBvRoXLMe
— 内田知弥 (@tomtombread) April 1, 2023
最近は、宿命というものが少しずつ分かるようになってきた。
この大地に生まれ落ちたその時から、通らざるを得なかった道がある。
それらの道が、魂や生命燃焼と結びついたとき、宇宙的な意味を帯びて時間の中から浮かび上がってくる。
ここに必然が絡むとき、ああ、これは宿命だったと認められ、憎きが愛しに変わっていく。
私にとって、鮮やかに移り変わる自然豊かな日本に生まれたことも、繊細な感性を持つ日本人として生まれたことも、武士道の魂ある日本に生まれたことも、すべては宿命だったと感じる。
神を失ったこの時代に生まれたことも、虚無に絶望して生きることが分からなくなったことも、文明から弾かれ生命が孤立したことも、すべては宿命だったと感じる。
人生の虚無にぶつかることも、現世の悪魔と戦うことも、すべてはずっと遠い彼方に憧れていたからこそ、起こりうる必然だった。
現世の小手先でどうあがこうとも、遅かれ早かれ、必ず通らざるをえないものがある。自分の意志でできることといえば、それが起きようとする時機を後ろにずらすことが精一杯のもの。しかし大体の場合は、地上の意志など宇宙の力の前では無力に等しく、知らず知らずのうちに、運命に飲み込まれている。冬の間はじっと耐え忍び、爽やかな野花と共に運命を自覚する。
宇宙的な力は、我々生命の見苦しい言い訳など、はなから相手などするつもりはないようで、勇気がないとか、準備ができていないとか、そんな低次元なものは、てめえでどうにかしろと言わんばかりに容赦がない。ただ一方的に降りかかるこの運命は、人間の都合など考えちゃくれない。必ずしも人を幸せにするものでもない。文明から人を弾くこともあれば、道徳を破らせて悪に染めることだってある。
amor fati
運命への愛
ニーチェのこの言葉の真意をまだ掴めていないが、運命は不幸や悪を含んでいる。これらを愛せるかどうか。不幸を受けれ、悪を受け入れ、それでも生命を生かしたいと思うか。
宿命の認識がされるほど、運命への愛が深まるのを感じる。文明から弾かれ孤立し、なんだかんだあり、今は再び文明にぶつけようとするこの生命を、私は宇宙視野から愉しんでいる。結果として生じる現世は、恥ばかりのものだけれど、私はこの生命の行末を見守ることしかできない。その結果、さらなる不幸と悪に染まることがあろうと、運命の流れに身を委ねることこそが、運命への愛だと信じている。
それにはやっぱり、地上的な未練があっては、まっとうできないものだし、宇宙的な神秘を信じる勇気がなくてはならない。そういった意味で、人間の弱さとも向き合わざるをえないことが、人間として生まれた宿命だと思っている。
運命への愛を渇望するのは、これが生命燃焼そのものであるからに違いないだろう。
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