【山ごもりday4】怖さの先に待つ感情との出会いが人を自由にする [88/1000]

山ごもり4日目。気温は5度。今日は一段と冷え込んでいる。

昨晩、たまたま月が雲に隠れたタイミングに、綺麗な天の川が見えた。順に目をたどっていくと、下流のほうには、細かい星屑がたくさん散らばっている。

 

明かりのない真っ暗な場所は心細いけど、こうして綺麗な景色を目の当たりにすると、寂しさが全部吹き飛んでしまうのはいつも不思議。

世界が「よくきたね」と言わんばかりに、静かなにご褒美をくれているような気持ちになるからかな。

 

昨夕、地に沈む太陽をお見送りし、今朝、太陽をお出迎えした。お見送りとか、お出迎えとかいうと、接客みたいだなと思ったけど、太陽崇拝をしていた時代は、こうして陽と共に生きることは当たり前のことだったのかもしれない。

 

朝日も夕日も、肉眼で見ていると、目がやられる。太陽のもつエネルギーは、自然界でもダントツだなと思った。

太陽がこの自然界をけん引していて、太陽の昇没を基準に、人間は「朝」と「夜」をつくり、動植物は生きている。

 

こうして今日の自分が、元気に生きられているのも、太陽のエネルギーなしでは考えられない。

太陽に生かされていることを考えると、太陽を崇めることは今日でも自然なことのように思える。夏は嫌ってごめんなさい。

【山ごもり瞑想記録】

<day3 朝>

「自分と思考/感情との境界線=意識の鋭さ」だと感じた。

内観をしていると、日々考えているようで、実は感覚に反応しているだけなのだと感じる。

 

途中、腹がグゥ~となった。外の風が冷たく、両腕全体に鳥肌が立っているのが分かった。

お腹の感覚と腕の感覚に意識を向けたくなるが(ヴィパッサナー瞑想)、これは大きな感覚に反応しているだけだと気づいて、すぐに呼吸に意識を戻す。

 

長い時には、3分くらい呼吸から意識を持っていかれた。

全体をとおして、呼吸に戻ってくることはできていたが、意識は鋭く研ぎ澄まされておらず、思考との境界線がぼんやりしている。

 

そのため呼吸に戻ってくることができても、呼吸に気づいているような、気づけていないような、曖昧な状態にあることが多い。

瞑想中、(これは雑念だけど)なぜ瞑想をしているのかがなんとなく分かった。自分を律して生きる人間が、カッコイイよく、美しいからだ。感覚をえり好みし、反応的に生きるのはその対称にある。

 

1時間瞑想をしても、全然足らないように感じる。あまりにも自分の意識が鈍っている。

自分が自分の言うことを聞いてくれない状態が続くと、自分を信じられなくなる。鬱のときはその状態がとても苦しかったけど、自分の中でどんなことが起こっているのかは、容易に想像できる。

 

瞑想も習慣にしたい。

 

<day3 夜>

睡魔に襲われ、半分くらい意識が朦朧となっていた。

瞑想中、眠ってしまうのは、体質なのか、それとも意識が鋭く研ぎ澄まされていないかという問いがあったけど、「意識が鋭敏ではないこと」が眠りにおちる理由だと感じた。

 

眠りにおちるときは、やってきたバスに乗ってどこかへ行ってしまうような感覚で、その感覚に外側から気づいていたいのだけれど、眠ってしまうときは、そのまま内側に飲まれてしまう。

こればかりは、身体の疲れもあるだろうから、いちがいに自分の力不足とは言えないけどね。

 

1時間自分の内側を観ていると、あまりにも波乱万丈で、瞑想をしなければこうして起きていることに気づかないまま、反応的に過ごしていただろうことを考えると、ちょっと恐ろしくなる。

 

クマが出ないか心配になりながらも、木の棒を見つけると、心強くなった。地面にトントンと叩いて固さを確認する。

もし仮に、クマに遭遇して、襲いかかってこられたとしても、木の棒を、目か鼻に一突きすれば、勝てる可能性がある。反撃の余地があることは、かなり心に余裕を生んだ。

 

クマ除けの鈴がないので、スマホで音楽を大音量で流し、オカリナを吹いて、山を目指すことにした。

クマも人間に怯えている。確かに、もし野性の人間がいるなら、クマよりも頭のいい人間のほうが怖いなと思った。

ボブディランのBlowin’ in the Windを流しながら、左手で木の棒をつき、音楽に合わせて、右手でオカリナをピッピと吹く。

牧草地を駆け抜けるころには、恐怖から一転、この冒険が楽しいものになっていた。想像だけど、中世のアメリカを旅しているようだった。

あまりにも陽気すぎて、逆にクマも踊りに出てくるんじゃないかと心配になった。でもそんな形での遭遇なら、仲良くやり過ごせそうな気もした。

 

怖いとか心配だとか、そんな気持ちもひっくるめるから、冒険になるんだよなと感じた。怖いからといって立ち止まれば、ずっと恐怖に縛られたままの不自由な人生になる。しかし、歩き出してしまえば、怖さは自然とほぐれて、新しい感情がやってくる。

 

怖いとか心配だとか感じることが不自由なんじゃなくて、怖気づいてその場にとどまってしまうことが不自由なんだと思った。

動き出せば、なんてことなかったことがすぐ分かる。1つ、また1つと、新しい感情に出会っていく度に、人は自由になっていく。

 

クマに出会うことなく、無事登頂!

絶対に遭いたくないけど、一度は遭ってみたいという不思議な気持ち。

 

山ごもりも今日で4日目で、いよいよあと2日となった!

瞑想していてもまだまだ意識が鈍いから、まだまだ山から降りられぬぞ!

 

さて、今日も修行じゃ!修行じゃ!

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