世界と繋がって華やかに活躍している人間にはない安心が、陽の目を浴びずとも孤独に淡々と生きる人間にはある。
そんなことを感じる日は、いつも生の衝動に息苦しさを感じていて、言葉にならない死の静寂と重みが欲しくなる。そしていつも、宮沢賢治の「雨にも負けず」を朗読したくなる。
山梨の小淵沢でテント生活をしていたときは、大雪や台風の中、寝袋にくるまりながら、「雨にも負けず、風にも負けず…」と呪文のように繰り返し唱えていた。それから時が経ち、「1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ」という一節に影響を受けて、玄米をモリモリ食べるようになった。
「皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に 私はなりたい 」というラストも好きで、誰かに向けてなりなさいと言うのではなく、私はなりたいといった。私はなる、でもなく、なりたい。
うまく言葉にできる語彙を持ち合わせていないけど、何度読んでも、勇気をもらう。人に賞賛されずとも、飾らない命にある、そのままの美しさを思い出しているからなのかな。
精神修養 #22 (2h/54h)
動じない。胡坐を組み、背筋を伸ばして、ただ真剣に、呼吸に集中する。
人の足音が聞こえても、茂みがガサガサと音を立てても、熊除けの鈴がチリンチリンと音を鳴らしても、動じない。ひたすら呼吸に集中する。
呼吸への集中の練度が高まるにつれて、外で何かが起きても、呼吸から意識を逸らさずにいられる。呼吸に集中している間は生にも偏らず、死にも偏らない状態でいられる。
雨がよく振り、屋根を打つ。雨音の中の呼吸は、いつにも増して集中できる(気がする)。
雨粒と思考は同じだと思った。1つ1つの雨粒と、1つ1つ生ずる思考は、入口が違うだけで感覚としてみれば、同列のものである。
そんなことを、思考と雨音が入り乱れる時に感じた。思考が屋根を打つ雨粒のようで、雨粒が内側にわく思考のようだった。思考と雨粒が交互に入り混じっていた。
感覚が生じる入口が異なっていても、内側に入ってしまえば同じ信号となるのだと知った。
現代は生の衝動に傾きすぎていて息苦しいという着想から、武士の世界が美しかったのは、生と死の2つの衝動のど真ん中を生きていたからという考えを経由して、サムライの国に生まれた男として、生と死のど真ん中を生きる道を自分なりに探求したいと考えるようになった。https://t.co/VJNuSAgJ2o
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) October 9, 2022
隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」を引き続き読んでいる。ようやく上巻の半分まできた。
時代小説を読むのは初めてで、分からない単語が登場する度に、意味を調べているので進みは遅いが、かなり面白い。
朝、目が覚めると、蒲団の中で先ずこれをやる。出来得る限りこと細かに己れの死の様々な場面を思念し、実感する。つまり入念に死んで置くのである。思いもかけぬ死にざまに直面して周章狼狽しないように、一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのがみつからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。考えてみれば、寝床を離れる時、杢之助は既に死人なのである。死人に今更なんの憂い、なんの辛苦があろうか。世の中はまさにありのままにあり、どの季節も、どんな天候も、はたまたどんな事件、災害も、ただそれだけのことであった。楽しいと 云えば、毎日が楽しく、どうということはないと云えば、毎日がさしたる事もなく過ぎてゆく。まるですべてが澄明な玻璃の向うで起っていることのように、なんの動揺もなく見ていられるのだった。己れ自身さえ、その玻璃の向うにいるかのように、 眺めることが出来る。
隆慶一郎. 死ぬことと見つけたり(新潮文庫)
取り越し苦労という言葉がある。どうなるかわからないことをあれこれ心配すること。葉隠武士が、朝から自分の新しい死にざまを考えて、入念に死んで置くというのは、本質的には違えど、苦しみを先取りするという点では似ていると感じた。
この2者の違いは、苦しみが向こうからやってくるのか、自分から先に取りに行くのか、ではないかと思う。前者が「取り越し苦労」なら、後者は「先取り苦労」だ。そして自分から取りにいく苦しみは、取り越し苦労とは異なり、自ら苦しみに飛び込むことができる。前もって、身体中で味わい尽くすことができる。
過去の傷は、言葉にすることや涙を流すことで浄化されるというが、同じことを未来に向かってすることもできるのだと思った。これから起こりうる苦しみ、その中でも最大の苦しみである「死」を先に体験してしまう。やってみるとかなり怖い。
ちょっと想像するくらいじゃ、死人(しびと)にはなれない。「入念に」という言葉があるように、リアルに、五感を使って、感情とともに味わい尽くすから、生への執着が薄れ、肝を据えて堂々といられるのではないか。
取り越し苦労をするくらいなら、その先に起こる最悪な事態を想像して、入念に先取りしてしまうことは、今日にも使える1つの教えかもしれない。
引きつづき、生と死のテーマの探求はつづく。
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