つい2,3日ほど前に、柿崎のとむの家を開放した。それから昨日、一昨日で柿崎に会いに来たいという連絡を、2人の方からいただいた!
嬉しい嬉しい!が、とても驚いている!そして感動している!これはすなわち、私の言葉で誰かを震わせられたということだ!そして今、こうして感動している私は、お返事の書き手に震わされているということになる!
振動が、人に伝わり、大きな振動となって跳ね返ってきた!反響して増幅した!些細なことかもしれないけれど、そんな科学反応の中にいる。
自分の振動で、誰かが振動し、誰かの振動で、自分が振動し、なんならそもそも初めに自分が放った振動も、誰かの振動があったからで…。
それを限界まで遡ると、宇宙が誕生した時から、震えは連鎖していて、何億年の時を経て、その末端に、我々は今、生きているということになる。なんと神秘的だろうか!
日々、心臓が鼓動を打ち続けていて、何もしていないようでも、身体は震えている。今この瞬間も、振動が次の振動を生み、文章を追っかけたり、笑ったり、落ち込んだり、元気になったり、アイスクリームが食べたくなったり、ネットフリックスでドラマが見たくなったり、オカリナを吹きたくなったりしている。
何かを書こうとするとき、「なんか面白いこと書かなきゃいけない」とか、「すごいこと書かなきゃいけない」みたいな発想をしてしまうけれど、これがとても馬鹿げているように思えてくる。書くことだけじゃない。「面白いこと話さなきゃ」とか「凄いこと成し遂げなきゃ」とか「素晴らしい絵を描かなきゃ」とかもそう。
結局、今の自分にできることは、自分が震えていることを、何かしらの形にして、そのまま世界に放つことしかない。自分そのものをそのまま世界に放つしかない。
それは言葉を綴ることだったり、人と話すことだったり、音楽で表現することだったり、行動に起こすことだったり、絵を描くことだったり、人によって形の在り方は違う。けれど、自分が震えているもの以上のものは、どうあがいても出てこないし、取り繕えば自分が苦しくなっちゃうだけね。
だから普段は、震えることをしたいなって思う。ずっといい震え方をしていたいなって思う。言い換えれば、感情を動かすことをしていたい。
クマに遭遇したら、きっと誰しも震える。絶対に会いたくないけれど、ちょっと会ってみたいと、思っていたこともある。ちょっと死にそうになるような体験を、心のどこかで渇望しているのは、デカイ震えを欲していたからだと今は思う。
新しいことを始める時はドキドキするし、好きなもの食べるとルンルンになる。「抹茶パフェうめぇぇぇぇ!!!んっはぁ~~~!!!人間最高~~~!!!」とかそんなレベルでも震えていたい。
読み手も、震えを感じられる方が面白いんじゃないかって思う。カッコつけて、体温が感じられないようなかたっくるしい文章とかじゃなくて、リアルにそのままの感情や思考を書きなぐるようにして出来上がった文章のほうが、めちゃくちゃかもしれないけれど、読んでいて体温は伝わるんじゃないかってね。
感情を動かすことをしたい。心の真ん中にある、したいことをしたい!
今あなたが一番にしたいことは何ですか?私は文章を書きながら、諏訪で食べた抹茶パフェを思い出して、猛烈に食べたくなっております!!!
きっと日本には、「感じていることをそのまま世界に放つ」ことを理屈でどうにかしようとする人が多いように思う。
思えば3年前、テント生活をしているとき、僕がまさにそうで、「そのままを世界に放つ」という感覚をいまいち掴めないでいた。
ある友人に、「練習している」みたいなことを伝えたら「そのままはそのままだけど、練習する必要ある?笑」と言われて、全身を日本刀でバッサリ斬られたような衝撃を受けた記憶がある。
昨日、上越の商店街を歩いていたら、短冊を見つけた。「ああ、そういや今日は七夕か~」と思いながら、書かれていることを覗いていると、面白いものを見つけてしまった。
短冊には「ゴジラになれますように」と書かれていた。それだけじゃない。「ゴジラになれますように」という願いの下に、ゴジラがビームを口だから出す絵まで描いてあった。
感じたことをそのままとは、きっとこういうことだと思った!
負けじと、俺はどんなことを願いたいか考えた。ゴジラに負けないぶっ飛んだ願いをしてやろうと思った。
けれど、そんな思いは虚しく、「綺麗な音を奏でられるようになりたい」という現実的なものしか出すことができなかった。
くっ…..負けたぜ坊主!だが、俺は子供心を少し取り戻した気がしたぞ!ありがとうよ!
自分をそのまま世界に放つことほど尊いものはないって思う。童心に帰って。
レッツビーゴジラ!じゃあ今日はこの辺で、バイバイ!
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