自分らしくないことをすることの大切さ。

自分らしくないことをしてみようと思った。

果てしない冒険が眠っているように感じるから。これまで通りの自分で生きていても絶対に見れないような、別の景色が広がっていると感じるから。

 

これはきっと、服を着ることに似ている。絶対自分には似合わないだろうと思って、勝手に敬遠していた赤色のキャップをかぶった時、不安をおぼえながらも、同時に高揚している自分がいた。

大抵は、鏡に映ったぎこちない姿の自分を見て、馴染みのない姿に違和感をおぼえる。しかし、鏡に映った自分を「今日初めて出会った人」だと思って冷静に見てみると、ジワジワと「これもありなんじゃないか?」と思えることがある。

それを思い切って買ってしまったときには、若干の不安が残るものの、着続けてみると、案外自分もコイツとイケてることに気づく。

自分らしいと思っていたものは、自分の作り出した幻想で、自分らしくないと思っていたものも、実は自分らしいものだったことを知る。

 

自分らしく生きることを心がけている我々は、次第に心地よい色に染まっていく。そしてどんどん綺麗な色になる。それが悪いことだとは言わない。

しかし、もし停滞感を覚えるのなら、それを打ち破るのは、「自分らしく生きないこと」だと思う。綺麗になった色を一度、汚してしまうことだと思う。

 

最近、私は自分を色に例えることが多い。この1ヵ月は、毎日のように、深緑の自然の中で過ごしてきたから、木漏れ日に佇む木々のような優しい緑や、早朝の空に広がる淡い青色を纏っているような感覚があった。

旅の中でお会いしたTさんに、「とむさんには、浄化する強い力があると感じた」と言って頂けたことがとても嬉しかった。きっとこれは、大きな山や空エネルギーを十分に受け取った私が、綺麗な緑や青色をしていたからだと思う。

 

しかし、綺麗な色をして生きることを、魂は求めているのかと思うと、必ずしもそうではないと感じる。魂は思いっきり汚れたいのではないかと思う。

燃え盛る火のように燃えて、大失恋の後に盛大なブルーを味わって、お金の欲望に禍々しくなったと思えば、汗だくの全身で大地を思いのまま転がって土だらけになりたいのだと思う。

それが、一時的に汚く、惨めなものに見えたとしても、誠実に生きることを忘れないかぎり、最期にはきっとすべての色が芸術に化けていくのだと思う。

 

「いや、俺は何色にも染まらないぞ!」と意気込んでいるとき、別の色を差別的に排除しているのかもしれない。少なくとも私自身は、自分を見てそう感じていた。

その差別意識に気づき、自分らしいことを辞めて、自分らしくないことをしようと決めたとき、心がフッと自由になった。

 

こうなるだろうと、勝手に筋道を立てている自分を盛大に裏切ってしまうと、いつしか盲目になっていた人生の面白味が再び溢れ出てくる。

この宇宙はずっと広い。自分でつくりあげた小っちゃな「らしさ」は、一旦置いておいて、ただ心が自由に、踊るように生きることを大切にすればいいんじゃないかな。

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