昨日、柿崎の海の「とむの家」に、初めてのゲストMさんをお招きした。
お招きしてしばらくは、生身のMさんとぶつかっている感触がいまいちなくて、泳いで釣りをして美味いものを食べて「満足した」というMさんに対し、本当にこれでいいのか?みたいなことをずっと感じていた。
少し勇気を出して、感じていた微妙な感覚をそのままを伝えると、「実は僕も同じことを感じていた」と彼も打ち明けて、時間は先ほどまでとはまったく別の温かいものになった。
彼を送り帰した今、愛おしさのような温かい感覚がある。
これからの人生で孤独に潰されそうになることはいくらでもあるだろう。けれどこうやって心の震えを正直に人に伝えているかぎり俺は一人じゃないと思えた。逆に、人の心に踏み込むことを怖がって、正直でいられなくなったら、いつでも孤独死するなとも思った。
思えばこんな体験を、福岡でもした。ブログを読んでお手紙をくださったCさんに会いに福岡を訪れた。お会いしてお話をするものの、取り繕われたような空気に気持ち悪さをおぼえて、どうしようもなく1人になりたくなった。
1人で外を散歩して、荒ぶる気持ちを書き殴って整理した後、このまま逃げるよりも、本音を伝えたいと思った。Cさんと再会して「Cさんと話している感覚がしない」と思い切って伝えた。それからは、正直な時間が流れた。一度はぐちゃぐちゃでカオスになったけれど、その瞬間すらも、当たり障りない会話なんかよりも、ずっと意味があると思った。
お別れした後は寂しさより、愛おしさが残った。距離が離れても、繋がっているみたいな感覚があった。
人には合う、合わないみたいな相性があるかもしれないけれど、それはあくまで入口にすぎないのだと知った。一歩踏み込んで、心の震えをぶつけ合う覚悟がお互いにあれば、最初の関係がどんなに最悪でも、愛おしいものに変化していく。
逆に最初のフィーリングがそこそこ良くても、取り繕われたままの関係であればその程度の関係となる。あくまでフィーリングは関係の入口に過ぎない。ゴールはいつも、その瞬間、瞬間にあって、その瞬間、瞬間のそのままの自分と相手でいることで、初めて関係に血液が流れ始める。
そのままを伝えると、関係が崩壊して取り返しのつかないことになりそうな気がして、怖くなる。私は思ったことをズバズバ言える性格ではないので、違和感を抱えながらも、どんな伝え方をしたら相手が傷つかないかみたいなことを永遠と考え、いつも一人の時間が必要になる。結果いつも、随分と遠回りをしてしまう。
私のように一人で考えてしまう人間は、「1人で解決しようとしなくてもいいこと」を知る必要があるかもしれない。「この会話微妙だと思うんだけど」とか「お話に嘘くささを感じちゃうんだけど」みたいに相手に投げてしまえば、嫌でも気持ちのベクトルは核を向き始める。そこは相手を信頼しないといけないけれど、目の前の人とこの時間を一緒につくるような感覚になれたら、きっとそれはいいものになる。
相手に投げた結果、劣等感を刺激された人は、怒ってどこかへ行ってしまうかもしれない。僕もそうやって逃げ出した経験があるし、人が取り繕った会話しかできなくなるのは、そうやって過去に傷ついた経験があるからなのかもしれない。しかし思いやりを含んだ踏み込んだ言葉というのは、人の心にちゃんと爪痕を残す。怒ってどこかに行っても、心を掴まれた感触というのは、ずっと胸の内に残り続ける。そして気持ちが落ち着くと、結局相手に連絡しちゃう。喧嘩のほとぼりが冷めて、「ごめん」と相手に伝えることに似ている。
一時的に場が崩壊して、ぐちゃぐちゃなカオスになっても、正直でありたいという気持ちがあれば、関係は修復し、深くなる。
ま、それでもどうしようもなくなっちゃうときもあるかもしれないけれど、もうそんな時はしょーがないって楽観的にいくしかない!(笑)
いつも孤独を感じて、いまいち人と繋がっている感覚が得られないときは、今ここに在る自分の感覚が蔑ろになっている証拠。頭の中で考えていることを伝えようとするんじゃなくて、胸の内にあるそれ!その感覚をそのまま人に伝えてみるんだ。
そんなお相手がいないという人は、ぜひ僕に会いにきてくれ!僕はもっと、そんな出会いがしたい!
とむの家は、まだまだ開放してるよ!
もし、忙しくてとむの家には行けないけど、交通費出してやるから会いに来い!という方がいれば、燃費の悪い軽バンに悲鳴をあげている僕は大変喜びます!
とむの家に行きたいけれど、行けない。お金もない。けれど、どうしても、どうしても会いたい!という方がもしいれば、ご連絡ください。頑張って会いに行きます!
というわけで、あなたからのご連絡お待ちしています!
じゃ!今日はこの辺りで!ばいばい!
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