この地上に楽園を探しつづけている。太陽がよく当たり、清らかに川が流れ、空気が美味しく、小鳥の鳴き声がよく聴こえ、自然の実りが豊富である。まだ人類が地球を開拓する頃、荒々しい地球の一画に、そんな理想郷を築き上げただろう。自然の実りを分かち合い、争いはなく、自然を崇めながら、宇宙と一体となって生き、星月を眺め、詩を詠み、永遠の憧れのなかに死んでいくのだ。それこそが隠者の理想であり、東洋の血に流れる根源的な欲求である。
この欲求の純度を何倍にも何十倍にも薄めるようにして、日常のなかに、非日常を取り入れてきた。庭や部屋で植物を育て、緑のツルをピアノにはわせてみたり、トイレに花を生けすらした。現実原則にしたがって、文明の生活をおくらねばならないと妥協しながらも、すべてを日常だけに支配されないように、わずかなところで理想によって抵抗してきた。
私はこの東洋的な血が体内を流れることに気づいたとき、なんともみじめな気持ちになったのである。純粋な理想をもちながら、文明の快適さや便利さを手放し、理想に向かう勇気がなく、妥協という形で魂を犠牲にし、生きながらえているのではないかと。
私は森に住むことにしたのは、この東洋の理想郷をめざす、快楽主義であるからにちがいない。しかし、正直にいえば、まだ純粋な理想からは程遠く、純粋な理想を何倍も薄めたものであることを強く自覚してしまったのである。もともと、仕事をしながら森に住むつもりであったし、中途半端に文明との接点を考えていたものだから、無意識のところでの現実原則を捨てきれなかったのである。純粋な理想のあこがれを「現実原則」という、いわば肉体の安心安全のために犠牲にしてしまった。束の間の安心を得たとしても、ほんとうのところでは、自分をごまかすことはできないのである。
「二つ二つのうち早く死ぬ方に片づくばかりなり」という葉隠の言葉は、真理を突いている。生きるほうを選んだ先にあるのは、みじめさと、恥と、後悔である。これは、宇宙の摂理に反したバチである。愚かな人間は、生きるほうを選ぶが、もしそこに後悔の念を抱くならば、人生の教訓として同じ過ちを繰り返しては、宇宙的進歩はない。
隠者の快楽主義は、何倍にも何十倍にも希釈した理想では、満足できないのである。満足できるまで少しずつ純粋に向かい、その理想郷をめざすのである。その究極は死であろう。純粋な死を迎えるときは、この世に生きていないのだから、生きているかぎりは本当の意味でその理想郷に到達することはできず、人里離れた山の中で憧れつづけることしかできないのである。鴨長明は、30歳で人里を離れて暮らすようになり、50歳になって山にこもった。それから、住んでみて気に入らないことがあれば、気の向くままに移動した。その変遷は、魂が死、すなわち生命の故郷を想いつづけているようである。
何はともあれ、中途半端な世俗の欲望や、肉体の安心安全に魂を悪魔に売り飛ばし、現実原則に妥協した生活というものの、みじめさには己の情けなさを感じざるをえない。齢はあと半年もすれば30となる。果たして俺は、この命があるうちに、どこまで到達できるのだろう。
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