夢の内容ははっきりと思い出せないのですが、心に溜めこんでいた悲しみや恐れが大きな塊となって重たいものを感じていた所、そいつを両親に指摘され、塊が自覚されてからは、悔しさや悲しみや苦しさや色んな感情が溢れ出てきて、声を上げて泣くというものでした。半分、意識が覚めているような状態でしたから、ああこれは朝から嫌な気分になりそうだと思いながら、実際に起きてみると、消極的な心は皆無で、むしろ朝から清々しく、寒さにも屈しない積極的で静かな心がありました。
「寒くなる、嫌だなぁ」なんて思っちゃいないかい。そんなんだから風邪もひくし、仕事にも行きたくなるし、何をするにも億劫になるんだ。「寒くなる。よし!身体が強くなるぞ!」と言葉にしてごらんなさい。背筋も気持ちもスッと伸びてちょっとやそっとじゃ怯まなくなるから。https://t.co/xImry0vonZ
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) January 24, 2023
天風先生の教えの大きなところは、絶対積極の精神の養生にあると思うが、これは消極的な心を1つも生み出してはいけないということではない。昨日も書いたように、寒波に凍死しないかとか、米が尽きて飢死にしないかとか、肉体を守るためにあれやこれや消極的に物事を考える性質が本能心には備わっている。身体を守るために消極性は生まれるのだから仕方がない。問題は心の扱い方にある。肉体がすべてとなるとき、本能心のままに全身は消極性に覆われ、怖気づいて何もできなくなるだろう。一方、消極的な心も積極的に扱えば積極性に転じるのであって、それを可能とするのが人間の心の構造である。
天風先生は、心には、物質心、植物心、本能心、理性心、霊性心の5つの層があり、右にいくほど深くなっていくと言う。ここのあたりはまだ勉強が進んでいないので詳しいことは書けないが、言葉から意味は推測できる。先に書いたとおり、本能心は肉体と対応しているのなら、理性心は頭脳と対応していて、霊性心は気(霊魂)と対応していると言えるだろう。
霊性心の概念を知らない頃は、理性で本能の欲に打ち克つことこそ、人間として清く生きることだ!と思っていた時期もあったが、これは思い違いであった。道徳が時代によって変わるように、理性は現世と常にリンクする。葉隠に、”我人、生きることが好きなり。多分すきの方に理がつくべし。”とあるように、自分に都合の良い方向に最もらしく理由をつけてしまうのが理性心というものだ。
本能心に支配されれば肉体は怯えるが、理性心に支配されれば自分に都合の良い人間になるのだと思う。恥ずかしいが、理性心に支配されるうちは、すべてを正当化して最もらしく聞こえる分、タチが悪いかもしれない。
霊性心は宇宙エネルギーと性質を同にするものらしい。宇宙エネルギーと肉体の摩擦の中に心が生ずると考えているが、その一番最初に接触する、純粋部分がこの霊性心であろう。霊性心は普遍的なもので、愛や誠や調和といった性質を持つ自然の法と言われるものである。既に我々の中には霊性心が宿っているので、日常において怒り悲しみ恐れに振り回されることがあっても、ある瞬間にはちゃんと愛を自覚できる。
西郷隆盛の「敬天愛人」、東洋思想における「天人合一」、金剛般若経の「法を身とする」というような言葉は、常に霊性心で生きることを意味するのだと思う。天風先生の教える絶対積極とは、宇宙エネルギーの性質を指すものだから、言葉をとおして心の在り方を純粋に近づけていくことが精神修養である。
目指すは純粋の一点である。
精神修養 #129 (2h/266h)
気には、精・気・神とある。それぞれは下丹田、中丹田、上丹田に対応すると言われている。
眠くなる時や、雑念が多い時は、特に上丹田の気が不足しているのかもしれない。仕事にどっぷり浸かると、考えが湧き出るようにとまらなくなって、眠れなくなる状態によく陥るが、これは脳をよく働かせたことによって上丹田が気不足を起こし、制御不能になったともいえる。
精を練ると気になる、錬精化気。気を練ると神になる、錬気化神。そうして下丹田から中丹田を通り、上丹田へと気が運ばれる。今朝の意識は非常にクリアである。意識が明瞭であるとは、気がまとまっている感覚と同義である。気がまとまりを帯びると、本能心や理性心も制御でき、雑念がわかなくなるのだろう。
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