日曜日の過ごし方[147/1000]

日曜日。皆はどうやって過ごしているのだろう。日曜日の過ごし方が分からない。

 

日曜日は、ある人にとっては休日であり、ある人にとっては安息日である。

私はクリスチャンではないので、安息日について浅はかな理解しかもちあわせないが、日常の労働から離れ、非日常性を追求するためにあることは何となく分かる。自らの行いを、現世的な労働から、神に向けるために、人々は教会に足を運び、祈りをささげる。

 

鬱のとき「大草原の小さな家」というドラマを心の支えにしていた。登場する家族の3人の娘が、眠る前にベッドでお祈りをするシーンが頻繁に登場する。誰かの無事を祈るとき、過ちを犯し罪の赦しを乞うとき、家族の幸せに感謝するとき、両手を組み合わせ天に祈るその姿はとても純粋で、このシーンに何度も励まされた。この主役である家族も、敵役として登場するいじわる家族も、日曜日には安息日として、必ず教会で祈りを捧げていた。

 

日常から離れ、非日常を取り込むというのは、いわば物質から精神を追求するということになる。「安息」日といいながら、実際は肉体の欲望を解放したような自由奔放な時間ではなく、自律性を伴った「祈り」の時間であると言える。

宗教で行われる断食についても、食への執着を絶ち、神に意識を向けるために行うという点で、安息日の考え方と同じだろう。

 

安息日という視点で、今日を眺めると神聖な1日に見える。特定の宗教に属さない私も、魂の価値を重んじるという点では、安息日の考え方は他人事ではないかもしれない。

私自身、月から土まで働き、日に休みをとっている。月から土を過ごすうちで、身体に負荷が溜まると、つい堕落して日常的なものにエネルギーを発散したくなる。身体が自由になればなるほど、より高い自律性が求められるという点で、日曜日にその人間の真価が試されるような気もする。

 

しかし、なんだか書いててとても堅苦しく感じてしまうのはどうしてだろう。私は融通の利かない人間で、美しさばかり追求すると一辺倒になってしまう。日曜日くらいは、温泉に浸かったり映画を観たり気ままに街を散策したり美味しいクッキーを食べたり、日常を満喫しなければ、浮世離れした人間になっちまいそうな気がする。もっとも精神性を追求するとはそういうことかもしれないが。

答えの見つからない現代人として生きる苦悩を今日も感じてる。

 

精神修養 #57 (2h/122h)

瞑想の大目的は「魂の鍛錬」にありながら、「現実をそのまま観ること」が一番近くにある目標である。

生じる思考や感情、身体に生じる痛みや、全身を襲う寒気に飲み込まれることなく、そのままを観る。

だから瞑想はイマジネーションの中にあるものではなく、むしろリアリスティックで、現実的なものだ。逆に、瞑想のない日常で思考や現実に飲まれ続けることのほうが、空想的で、非現実的であるといえる。

魂と肉体の拮抗作用の中に魂の鍛錬は行われると信じてきたが、言い換えれば、現実の中でこそ魂が鍛えられるということだろうか。

 

[夕の瞑想]

自分の名を与えられて生まれたこと、この名のもとに肉体を持って生まれたことは、紛れもない宿命だ。自分の声、体質、運動神経、感性、傷つきやすさ、疲れやすさ、これらすべてが宿命であると思うと、なんだか不思議な気持ちだ。

瞑想の最中、「内田知弥」という人間の肉体と拮抗しながら、自分自身にライバル意識のようなものが芽生えた。この肉体を通して現世を体験し、魂を磨き、またこの肉体によって苦悩を強いられる。

この身体で28年間生きてきたが、ここまで鮮明に魂の観点から自分の肉体を見つめたことはなかったかもしれない。この肉体に宿ったことに宿命を感じながら、この宿命の上で、命を躍らせていく。

出会うものすべてに意味があるという使い古された言葉の真意を、「宿命」という言葉の中に見つけた。出会うものよりも、出会わないもののほうが圧倒的に多い世の中なのだ。

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