吉田松陰は、群を抜いた読書家であった。鎖国の中、アメリカの軍艦にまぎれ潜入を試みようとした罪で、野山獄に投獄されるも、その3年間のうちに読んだ書物は1500冊を超えていたという。これは、一か月あたり約40冊のペースにあたる。獄中にあたっても、ただ読書だけをしていたのではなく、他の囚人たちと句会を開いたり、孟子の勉強会も行ったりした。監獄という、不自由な身でありながらそれが実現したのは、吉田松陰の国を思う純粋な人柄と、その天に与えられた才能を、監獄長も認めていたからであった。
共にアメリカ軍艦に潜入した友が死んだときは、落ち込んだ吉田松陰を励まそうと、囚人たちが率先して、友を弔う句会を催した。世間のはみ出し者だった囚人たちが、これほどまで吉田松陰のために行動を起こしたのは、やはり、これまで出会ったことのない、彼の人間に対する平等で純粋な人柄と、その才能に涙を流したからであった。
囚人や看守、監獄長は、吉田松陰のことを「先生」と呼び、こうした句会や、孟子の勉強会にも参加している。監獄長までもが、一囚人にすぎなかった吉田松陰を「先生」と呼んだのである。それほどまで、吉田松陰の人格も才能も天性のものであり、人々もまた、同じ天のもとに生きていた。
吉田松陰が「孟子」を読む際に、心掛けていた姿勢として次のことがある。
「経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要(かなめ)なり。若(も)し少しにても阿ねる所あれば、道明かならず、学ぶとも益なくして害あり。」
これは、聖人や賢人に追従しないということである。もし、少しでも追従する気持ちがあれば、道は明らかにならず、学んでも益がなく、むしろ害がある。害とは、教条主義におちいることを言うのだと思う。教条は時代と土地の道徳と結びつき、今日の実生活に必ずしも結びつかない。吉田松陰は、学問は今生きている人間が向き合っている課題と無縁であってはならないと考えていた。こうした姿勢が根底にあるので、後に主催者をつとめた「松下村塾」での教育はかなり先進的なものであり、明治を切り拓く人間を多く輩出することになった。
ほんとうに立派な人であった。人格においても、才能においても、天の光がそのまま肉体に宿ったようである。しかし、そういう人物が日本には存在し、国のために死を覚悟して努力していたのだ。時代は違えど、今日では本を通じて、吉田松陰と出会うことができる。心の師として、「今、先生なら何と言ってくださるか」を考えながら、目の前のことに向き合えることは、幸いである。もっとも、そのためには本を読み込まねばならない。吉田松陰先生については、処刑されるにあたって書き残した「留魂録」がある。文字どおり、魂が残っているのである。
【書物の海 #6】・小説 吉田松陰, 童門冬二, 集英社文庫
中国の古典を読む場合には松陰は門人に対し、
「返り点や送り仮名をつけた文章から入ってはいけない。なにもない白文を読みなさい」
と命じた。
「そういう読み方を続けていれば、かならず意味がわかってくるはずだ」
と根気強い勉学をすすめた。
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