気がつけば8月も今日で終わりである。1年のうちでもっとも血のにじむ時期が終わり、1年のうちでもっとも優雅な季節がやってくる。
私のいる八ヶ岳麓の森では、既に秋の兆しを感じられつつある。産卵のためにやってきたカッコウやヒグラシの鳴き声はすっかり聞こえなくなり、代わりに以前には聞えなかった別の渡り鳥の声が聞こえるようになった。朝の空気は上品に冷たくなり、松ぼっくりは地面に転がりはじめ、今朝はつくりかけの窓枠に、少し成長したヤマガエルがちょこんと座っていた。
最近は家づくりに集中していたこともあり、あまり自然を気にかけてはいなかったが、ずっと森のなかで生活していると少し変化があるだけでもよく分かるものである。森には刺激的なたのしみはないが、季節のうつろいや生き物の変化のような、ゆっくりと深い愉しみはあるようで、なんだか鴨長明と心を通わせられるようである。
季節移ろう儚さは、日本人の精神を陰ながら築きあげつづけているものだと思う。それは儚いという感覚が、人間を日常から非日常へいざなうものだからである。我々は非日常を感じることによって、死んだ爺ちゃんの青年時代を想像してみたり、ずっとさかのぼって平安の詩と繋がって、変わらないものを確認するのである。何千年もこの日本の地に生きてきた人間は、今日の我々と同じように、自然災害や飢えと戦いながら、仕事に精を出し、人間関係に悩み、喜びや悲しみや怒りを、淡い夕方の空に向かって放っていたのである。
それを感じるとき、勇気がわいてくる。ずっと変わらないもの、春夏秋冬に包まれて、今日生きる人間だけが日常という宝を手にしているのだ。儚さとはそれを思い出す瞬間である。投げやりになりたくなったり、手放したくなったりする日常も、今日生きる我々だけが手にしているものなのだから。
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