社会が重力を失い、個人も重力を失った[404/1000]

人間は本来、色んな愚にも付かない事をするものであるが、とり分けこん度の様に一朝にして総てを灰塵に帰すると云う様な危険性の多分にある都会の中にあって、一朝にして灰となる運命も知らぬげに、自分の住家に、大層なお金を掛けて、ああでもない、こうでもないと色々と苦心して、建てる事程間抜けな愚かしい事はないとしみじみと思い当った。こうして苦労して建てても一朝火炎に見舞われれば直に灰塵となってしまうのであるのに、全く建物にお金を掛けたり苦労する程馬鹿らしい事はない。

鴨長明(佐藤春夫訳), 「方丈記」

 

森の中に掘っ立て小屋をたてている。方丈庵にならって3メートル四方にしてみたものの、正直これでも大きいと感じるほどである。家をたてながら「これで強度は大丈夫か。地震が起きてたおれないか」と苦心するばかりであるが、その度に鴨長明を思い出す。どのみち柱は地面に埋めている以上、腐ってしまうから、どれだけもっても10年である。永遠に存在するものでもないのだから、起こるかもわからない地震の心配をして気苦労を起こすことも、なんだかばからしくなるのである。地震が起きれば、倒れるかもしれないし、倒れないかもしれない。それは運命だけが知ることであって、生きるも死ぬも含めて、人間はそれに従うことしかできない。家については、1年もてばよし、3年もてば十分、10年もてばもう何もいうことはない。魂の養うための仮の庵にすぎないのだ。肉体を雨風と寒さからまもり、静かに本を読めればそれで十分である。そんな心持で家づくりに励めばいいのである。

 

心配事や苦しい事ばかりが世の中には多くて少しも落ち付いて暮らす事も出来ず、まことに住み難い世の中だ、嫌な世の中だと、何だと不平を云いながらも私は既にもう三十年と云う長い間この苦しい、つらい世の中に堪え忍びながらも住んで来たのである。そしてその間にあった色々な出来事や、嬉しい事よりも悲しい事の多かった事、思い掛けない災難に遭ったこと、失敗した事等によってしみじみと自分の運命の情けない事を悟る事が出来た。それでもまだまだ全く世を捨てる事は出来なかったのであるが、遂に五十歳の春には全く家を捨て、苦しい世を捨て、全くの遁世を決心してそれを実行したのである。

鴨長明(佐藤春夫訳), 「方丈記」

 

住みづらい世の中だとか、嫌な世の中だとか、そうした不満をこぼすことは嫌がられ、前向きで積極的で明るい言葉が好まれる世の中に思われる。しかし、どうしてか、明るくとも軽い言葉には勇気を失い、厭世的であろうと鴨長明の言葉には救われるのである。それは魂を癒すものは魂の重みしかなく、言葉の表裏や形式は第二義だからだと感じる。この重さは宇宙エネルギーである以上、それを肉体が日頃受け取る総量によって決まるものだ。日頃から魂を掴み、魂の重力を背負い生きる人間の言葉には必然と重みが宿る。また魂の重みによって生み出されたものこそ、文学や音楽であり、その重みを受け取ることこそ真に作者の望むところである。

 

私はこの重みだけに真実を感じる。重みだけが本物である。三島由紀夫の東大全共闘と討論するドキュメンタリーが好きで何度も見返す。ここに魂が燃える感覚をおぼえるのは、その社会を覆う重みを感じるからだ。伝統的な家族観を失い、軽薄となった社会にどうして人間の魂が帰ることができよう。私は現代の”孤独感”は孤立感であり、すべては社会が重力を失ったことにより、自己からも重力が喪失したことに由来すると思う。自己に重みを感じられないから、生きている実感と地から沸き起こってくるような深い安心感も得られないのである。

やることは一つである。魂の重みに毎日触れること、それだけである。そうして自己の重みを感じ、ついには重みによって肉体を超越すること。その境地がほんとうにあるのかは分からないが、それが私が向かわんとする魂の救済である。

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