フランスかどこか遠いヨーロッパの言語の勉強をしている定年を迎えたおばあちゃんがいて、「どうしてその言葉を学んでいるの?」と聞いたら、「成長するためだよ」と優しく答えてくれた。
何か面白い答えを期待していた当時大学生だった私は、「ふぅ~ん。」と冷めた返事をして、その言葉を低次に捉えたまま勝手に納得してしまった。
おばあちゃんが伝えたかった成長とは、「出来なかったことが出来るようになる」といった行為レベルの話ではなくて、もっと大きな意味での成長だったのだと今では思う。
生きる前から始まっていて、死んだ後も続くような「魂の」成長だったのではないかと。
魂と身体で、私。魂は成長したい。魂は身体がないと経験できない。経験しないと魂は学べない。どうせなら死ぬまでに、この身体を使い倒したい。頭がヘロヘロになるくらい酷使することや、身体を思いっきり動かすことを楽しんで、他人の肉体と交流して、隔たりの向こう側にある剝き出しの魂を感じたい。
— とむ(地球を旅してます) (@tomtombread) June 15, 2021
梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」という本を読んだ。学校の女子グループの人間関係に辟易した中学生の女の子(まい)が、中学校に行く代わりに、母方のおばあちゃんの家で、昔ながらの知恵のある暮らすことをして、人の在り方を学んでいく話。
ある日の晩、まいはおばあちゃんにこんな質問をした。「人は死んだらどうなるの」
「分かりません。実をいうと、死んだことがないので」と答えるおばあちゃんとまいは笑い合った。
続けて、おばあちゃんはこんな話をした。
「人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません…..身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。」
引用:梨木香歩「西の魔女が死んだ」
魂というのは、実はもっと軽い自由な存在で、私たちが肉体を通してこの世に接しているのは、実は不自由であるという考えは、なんだか可笑しくて笑ってしまう。
部活時代の死ぬようなトレーニングを思い出した。心臓破りの坂とも呼ばれる地面を力いっぱい蹴って、坂道を全力ダッシュで駆けあがるというもの。「本当はもっと前に進んでいくような感覚があるのに、足が重くて思うように上がらず、身体はちっとも前に進んでいかない」という、もどかしい体験を思い出した。
もし私が、肉体を持たない魂だけの存在だったら、あの頃死に物狂いで行っていた坂道ダッシュなんて、鼻で笑うくらい楽勝だったに違いないと思う。肉体を持たない魂に、そもそも笑う鼻はないし、肉体のない私は私とは言わないのだけれど。
肉体は重力や、筋肉疲労、心の影響も受ける。天気や他の肉体を持つ動物や植物からも影響を受ける。今この瞬間も、自分を取り巻く、この世界すべてから影響を受けている。美しい木に癒されることもあれば、汚い車の排気ガスに心を曇らせることもある。
ああ~本当はそんなこと考えたくないのに~!とか、もっと幸せを味わっていたいのに~!と願っても、人間の身体を持っている以上、私たちは世界から影響を受け続ける。
そう思うと、この世界に人間として生きること自体、不自由だらけなんだと分かる。いや、「だらけ」というより、魂から見たらすべてが不自由なことなんだと分かる。
私たちは不自由な人間として生きている。苦しみのある世界に生きている。
「それじゃあ、身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。なんだか苦しむために身体ってあるみたい」
引用:梨木香歩「西の魔女が死んだ」
というまいの質問に、おばあちゃんの話はまだ続く。
「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから」
引用:梨木香歩「西の魔女が死んだ」
この言葉に出逢えて、本書をとった自分を褒めてやりたい。
私は人間が不自由な存在だと知っても、自由に生きたいと強く願う。不自由であることを嘆いて終われば、そこで魂の成長は終わってしまう気がする。不自由な人間であることを認めながら、自由に生きようとすることに、夢を形にするだとか、できないことができるようになった大きな喜びだとか、美しいものに出逢えた感動がある。その先に、魂の成長があると信じている。
不自由な人間ながら、自由に生きることとは、「身体の私」と「魂の私」の両輪で生きることなんだろう。
身体の私だけで生きる人は退屈だし、魂の私だけで生きていても、夢は形になっていかない。
例えば、森に自らの手で家をつくりたい、とする。
身体の私として生きているとき、「一人で壁を作れるのか」「経験がないのに基礎を組めるのか」「そもそも自分にできるのか」といった、現実的な発想が生まれる。もちろんこれは、身体の制約を抱えているのだから、生まれるべき発想であるし、この世に生きている私は、肉体を通じてしか、世界を体験できないので、これは決して軽んずべからずだ。
しかし、身体の私は、魂の私よりも、ずっと脆いのだと思う。毎日怠けたい。楽をしたい。このままでいたい。変わりたくない。
私は「身体の私」になった途端、つまらない自分になったなぁと感じることがある。膨らんでいた夢が急にしぼんで、楽しかった気持ちもどこかに消えてしまう。
身体の私として生き続けている人との会話は、とても退屈だ。言葉からすべての輝きがまったく失われてしまったように感じる。
私に、いつも勇気をくれるのは、「魂の私」の存在だ。人と会話して元気が出るのも、「魂の私」と会話しているときだ。魂は肉体の制約を知らない自由な存在だから、お前ならできる!と勇気をくれる。愛と希望に満ちている。
「身体の私」と「魂の私」の両輪が必要だと思うのはここにある。
魂が身体を導く。導かれた身体で魂は学ぶ。そうして人生は彩を深めていくのだと思う。
損得勘定だけで生きていたら、不自由に不平不満を垂らし続けることからは、脱出できない。
身体を動かさなければ、魂は学べないし、この世界に形のあるものは残っていかない。
どちらも私。どちらが欠けてもだめだ。
生まれ持ったこの身体も、ここに宿ったこの魂も、両方で生きていくんだ。
お久しぶりです✨
この「魂」についての話、私も好きです(^^)
好きです?信じてます?なんて言えばいいんだろ…
とにかく、私にもっても、「魂」ってきっとあって、その「魂」には年齢もあって、学ぶためにこの世に居る、っていうの、うんうん、と頷けることです
きっと、沢山のものをキャッチしてしまうのでしょうから、
たまには意識して無になって、心休めてくださいね✨
machikoさん
お久しぶりです!と記憶が曖昧のまま、お返事することは不誠実だなと感じて、以前コメントをくださったのは、いつだったかな~と遡らせていただきました。あれから2年になるのですね!
お元気にされていますか?私は元気であったり、元気でなかったりしていましたが、今はとっても元気です。
この魂の話を理解していただける方と、もっと深くお話がしたいな~と記事を書きながら思っていました。
私は鬱で引きこもっていた時、頑張りたいけれど頑張れない時間がとても苦しくて、頑張れないときでも頑張れる気持ちになれたらいいなってずっと思っていました。
この魂のお話は、そんな状態の人にも勇気の出るものだと感じています。
心を休めてくださいとの、温かいお言葉、有難うございます!
machikoさんもどうか、心も体も、温かくして、健康で元気な時間をおくられてくださいね♪