文明も時代の道徳も突き破らなければ、生命は死ぬ。③[258/1000]

約半年、毎日2時間行ってきた瞑想を、今はこう考える。

瞑想は永遠の憧れにひたすら向かっていくこと。我と汝になることで、神を志向することで、死を想う心で、忍ぶ恋である。現世の雑念妄念から離れることは目的ではない。永遠の憧れに向かおうとすれば、雑念妄念は自ずと身から剝がれていく。雑念妄念を捨てようとする営みは、あくまで現世的であり、雑念妄念を捨てようと思えば、これが欲望となって別の雑念妄念を生む。

永遠の憧れに向かおうとする瞑想は、魂を救済することで、宇宙的存在であることを思い出すことで、この生命を煥発することの支えとなる。「毎朝毎夕改めては死ぬ」という葉隠の言葉のとおり、文明に飲み込まれようとする生命をど突いてやり、瞑想によって醒めなければならない。

 

昨日書いた、貴族道徳、奴隷道徳は、言葉のとおり西洋で生まれたものだろう。貴族道徳と聞いて、真っ先に思い浮かべたのが、ノブレスオブリージュ(高貴なる義務)だった。この義務を支えたものが、貴族道徳だったと思う。第一次世界大戦の撃墜王である、ドイツのリヒトホーフェンも貴族出身だったことから、大きな義務を背負って国のために戦ったのだろう。リヒトホーフェンの高潔を見ていると、胸に抱いている熱い誇りが伝わってくる。

高潔といえば日本は武士道だけれど、武士道は階級を指すものではなく、精神を指すもので、商人でも農民でも貫くことはできた。武士道と呼ばれるのは、武士階級によって培われたからだろう。武士という階級の立場を自覚することで、他の階級から尊敬や信頼を得た。

 

自分達が貴族であることを自覚し貴族道徳を生んだ。武士であることの自覚が、武士道の貫徹を生んだ。

階級から生まれた道徳を根底に、義を貫く文化が生まれている。今日、差別は悪であるが、差別によって高貴なる道は生まれている。言わずもがな、奴隷道徳もまた、被差別的な虐げられる環境で生まれたものだろう。差別は悪、平等は善の、現代感覚だとこのあたりの理解は難しい。

 

葉隠の「修行は大高慢になければ役に立たざるなり」という言葉が腑に落ちる。これはある種の「自分は他とは違うのだ」という高潔であることの差別意識がなければ、道を貫く覚悟も、気概も、生まれないということではないか。なぜならば、道は立場の違いから生まれたものだからだ。平等を謳う今日は、楽をして生きようとする大衆とは、自分は違うという気概がなければ、武士道を貫くことはできないのだと思う。皆一緒といえば聞こえはいいが、皆一緒では文化は生まれず、文化を全うすることもできない。今日では悪だけれど、悪の力を持って自分に厳しく当たらなければ、修行は成り立たないのだと思う。

我々が本当に一緒なのは、人間として生まれたこと、永遠に向かう魂に生きられること、自分以上のもののために命を奉げる生き方ができることではないか。この平等以上の平等を欲さないから、まっとう出来る生き方もあるのだと思う。

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