自己中心性からの脱却は、魂を懇願する現代人にとって大きな苦悩である。人に好かれたい、幸せになりたい、美味しいものを食べたい。こういった価値観が社会で認められ、メディアを通して日常化されるにつれ、生は水平化の一途をたどり、自己中心性に吸い込まれる環境にある。https://t.co/GrIzTA3h7G
— 内田知弥 (@tomtombread) February 8, 2023
自分の外を理解する、最後のきっかけは修身だったように思う。修身は、戦前に学校で行われていた、今でいう道徳を指す。戦後、修身は公教育から廃止されている。この修身の教科書を手に入れた時、現代道徳と修身の対立構造が、自己中心性と魂とまったく同じものだったと気づいた。つまり修身に生きることが、自己中心性を脱却する具体的手段であると感じたのだった。
私にとって記憶にある道徳は「感謝」だった。私は小中高とテニスをしてきたが、環境に感謝しろ、両親に感謝しろ、先生に感謝しろと、毎日のように言われた記憶がある。スポーツ選手のインタビューを聞けば、感謝はもはや常套句となっている。感謝の波動の力が幸せを引き寄せると信じられる世の中である。感謝の価値は絶対的なものとなった。もし感謝を悪だという人間がいたら、軽蔑のまなざしを向けられるくらい、感謝の価値は妄信されている。
戦前、道徳の代わりに、修身が行われていた。修身という言葉は、四書(論語、孟子、大学、中庸)の大学の中の教訓から取り出されたものらしい。天下を治めようとするなら、まず自分の国をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つようにととのえなさい。自分の家をととのえるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作りなさいという考えがもとにある。だから、乃木希典や西郷隆盛のように、上に立つ人間は必然と立派な人格者であった。学校の先生も立派な人物であった。さもなければ、国を治めることも子供に教えることもできなかったのである。
以下、渡辺昇一監修「国民の修身」の一年生の内容の目録を紹介したい。
【一年生】
一 ヨク マナビ ヨク アソベ
二 ジコク ヲ マモレ
三 ナマケルナ
四 トモダチ ハ タスケアヘ
五 ケンクワ ヲ スル ナ
六 ゲンキ ヨク アレ
七 タベモノ ニ キ ヲ ツケ ヨ
八 ギヤウギ ヲ ヨク セ ヨ
九 シマツ ヲ ヨク セヨ
十 モノ ヲ ソマツ ニ アツカフ ナ
十一 オヤ ノ オン
十二 オヤ ヲ タイセツ ニ セ ヨ
十三 オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ
十四 キヤウダイ ナカ ヨク セ ヨ
十五 カテイ
十六 テンノウ ヘイカ
十七 チュウギ
(後略)
国民の修身, 渡辺昇一監修(産経新聞出版)
学年が上がるにつれ、高杉鷹山や中江藤樹、戦死を遂げた軍人の話も出てくる。今はなき、天皇陛下に対する忠義や、忠君愛国の精神も教えられている。初めて修身を読んだ時は、漠然とした懐かしさだけがあった。この懐かしさを辿ると、厳しかった先生や、両親、祖父母にお叱りを受けたときと似ている。
さて、主題は自己中心性からの脱却である。この修身と道徳が、自己中心性とどうかかわってくるのかを言葉にしてみたい。
道徳は価値基準が自己の内にあるのに対し、修身は価値基準が自己の外にある。道徳は感情に重きが置かれるが、修身は精神に重きが置かれる。修身は、良いことは良い、だめなことはだめとはっきり言う。感謝していようが、頑張っていようが、物を粗末にしたり、自慢をしたり、恥ずかしい真似をすれば、容赦なくだめだと言われる。そこに個人の感情が挟まる余地はない。
つまり、道徳は自己が中心にあるが、修身は自己が中心にない。修身の中心にあるのは、魂が貫く人間文化である。美学を基準に発し、自己は制する対象にすぎない。だから修身は、自己を律する厳しさを伴う。「ナマケルナ」とはっきり教えている。これが自己中心になれば、感情が優先され怠けることも肯定される。もちろん、自己の都合がいいように、”リラックス”という言葉に置き換えられて罪悪感が生まれないように巧妙に行われる。
修身に生きることは、自己中心性から抜け出すことを意味し、同時にこれは他者と同じ魂に生きることを意味する。恩を授かれば、恩を返さなければならない。同じ魂の上でやり取りをしている。恩を自己に収束させれば、感謝して終わる。自己は目的でもゴールでもなく、媒介の道具に過ぎず通過点である。行為によって「身」を「修め」、魂の美学に生きるから修身というのだろう。だから修身は、自己中心性から離脱する具体的な実践手段となり得ると思う。ただもちろん、基準を魂に置く以上は、行為が自己から発せられるものではなく、魂から発せられるものであることの自覚は必要だろう。
そのために、魂を学ぶのだ。日本の美学を学ぶのだ。
精神修養 #145 (2h/298h)
禅僧は死ぬ気で修行した。そして実際に死んだ者もいる。死ぬ気でやらなくて何が精神修養か。身を奉げる覚悟がなければ、瞑想ごっこではないか。
乾布摩擦を始めて3日となる。毎朝、上裸となり朝から冷気に触れると、1日中の身体の調子がいいことが分かった。その証拠に、1日中薄着で過ごせる。
昨晩、霊性心を感じられたのは、この恩恵もかなり大きい。生命機能が解放されない時、意識は内側内側へと向かう。「寒い寒い」と気がかりで自己中心性に引っ張られる。生命機能が解放されるとき、意識は外側外側へと向かう。だから自ずと、自己中心性からの脱却は行いやすくなったのではないか。
自分の内側に意識を向ければ、本能心や理性心があり、外側に意識を向ければ、大きな宇宙の中に霊性心がある。基準をどこに置くか。自分の内に置くか。外に置くか。
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