空を見上げるときに一番孤独を自覚する/天は誰も見放さない[162/1000]

一人で空を見上げる人間ほど、潜在的な部分で天に恋をしているのだと思う。人それぞれ、天に通ずる道を持っている。直感的にこれを失えば、天から切り離されると感じるものがある。これをしなければ人生が進まないと感じることがある。それがその人間にとっての、天に通ずる道だろう。

 

地に堕ちたと感じるときもあるが、決して天から見放されたわけではなく、この道の厳しさに飛び込む気力を一時的に失っているだけに過ぎない。これは引きこもり鬱だった私自身に言えることだった。人生全てが台無しになったように感じる時も、天は見放さない。その証拠に、自分がダメな人間だとどうしようもなく責めてしまう時も、天は変わらず美しい空を見せてくれるだろう。

 

天に通ずる道は、言い換えれば、運命をまっとうする道でもある。メインロード。

想像でしかないけど、敬天愛人に生きた西郷隆盛は、誰よりも天を見上げる人間だったんじゃないかな。

「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話のなかで、あれほど頻りに「天」のことが語られたのでありましょうか。のろまで無口で無邪気な西郷は、自分の内なる心の世界に籠りがちでありましたが、そこに自己と全宇宙にまさる「存在」を見いだし、それとのひそかな会話を交わしていたのだと信じます。

内村 鑑三; 鈴木 範久. 代表的日本人 (岩波文庫)

 

日本人は生来、天の命のもとに生きてきた。夫のために命を奉げ、主君のために命を奉げ、天皇のために命を奉げ、天命のために命を奉げた。特定の宗教に属さない代わりに、天を仰いで救いを求めていた。その遺伝子は、今日の我々も受け継いでいるはずだ。今日何気なく空を見上げることも、実は民族的な慣習かもしれない。

 

精神修養 #72 (2h/152h)

・自己の内に猛獣がある。檻がなければ猛獣は暴れる。

・傷つくのはいつも自分。自分が大きくなるほどに傷つき人を傷つける。

・喧騒はいつも自分にある。自分を制すれば静寂を得る。

・自分を放っておけば肥大化する。自分を制するために、瞑想や祈りがある。

猛獣はどれだけ手名付けても、猛獣に変わりない。しかし法によって制することができれば勇猛な力となる。

 

[夕の瞑想]

第一段階は、呼吸に集中し、自己の輪郭を掴むこと。

第二段階は、自己の輪郭に法を纏うこと。

第三段階は、法を実行し、自己との一体(点)を目指すこと。

あくまで仮説である。武士道も信仰もない人間は法を築くところから始まる。法がなければ無秩序になる。歴史に名を残す人間は徳の高い法を実行してきた。

 

金剛般若経の「法を身とする」という言葉を手掛かりに、生き方を探求している。法の言葉がさす真意は分かっていない。人間には生来、外に膨張する作用が働いていると思うのは昨日書いた通り。法は自己の膨張を制する働きをしながら、外側から圧力をかけ、天に向けて放つ役割を担う(のだと思う)。

つまり、生まれ持ったエネルギーと宇宙のエネルギーのぶつかり合いの中に圧力が生じ、これを爆発させるところに天に通ずる道があるのではないかということ。前者は動物的なエネルギーで後者は人間的なエネルギー、先天的なエネルギーと後天的なエネルギーともいえるかもしれない。

 

法は宇宙のものであり自然である。ゆえに天を畏れ、これに仕えることをもって目的とする者のみが法を実行することができる。 天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない(我を愛する心をもって人を愛すべし)

内村 鑑三; 鈴木 範久. 代表的日本人 (岩波文庫)

 

西郷隆盛の言葉に真理を感じてる。新約聖書やコーランのような聖典も言葉として形式を帯びているが、本質を辿れば宇宙のエネルギーに生きた人間の魂だったはずだ。法はいつも宇宙にあり、日本人は感覚的にそれを身に纏い、武士道に生きた。この感性もまた日本人の民族性だろう。

敏感な人間は多く(私もまたその一人で)、今日生きづらさを覚えることも多いかもしれないが、この力で法を纏うことはできないだろうか。

 

空を見上げるときが、一番、孤独を自覚するのはどうしてだろう。空を見上げるときに、信仰に似た純粋さを自分の中に見つけている。

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