「人生を振り返って唯一後悔していることはなんですか?」という問いに対し、9割の人が「もっと冒険しておけばよかった」と答えたという話がある。
昨晩、寝袋にくるまりながら、自分の死を想像した。今から10秒後に天に召されるとしたら、このまま悔いなく死ねるだろうかと考えてみる…。
答えがはっきりとしないまま、10秒が経った、、、、、死んだ。何も出てこなかった。
自分の身体から、自分が抜けて、宙に散らばろうとしている。3mほど上空にあがったところから自分を見下ろしてやっと「いやいや、俺はまだ死ねない、もっとこの身体を使って冒険がしたい」と思った。
それから真っ先に浮かんできた3つのこと。
1つ目、身1つでインドに行くこと。沢木耕太郎の「深夜特急」を読んだ完全な妄想でしかないが、糞暑くて、汚くて、常識が全く通用しないインドの洗礼を受けまくって、ウアアアアアアア!と発狂せざるを得なくなるくらい、むちゃくちゃな旅がしたい。
2つ目、山に暖炉(薪ストーブ)のある小屋を建てて住むこと。これはここ最近、ずっと思っていること。ロマンを感じる。狭くていい、壁も薄くていい、外気の冷たさと、内の火の温かさが混在している場所。常に呼吸と在れる場所。燃える炎の前で、客人と熱い珈琲を飲みたい。
3つ目、ピアノを弾き込むこと。コンサートをすること。死んだらあの世には何も持っていけないことを思うと、形として残るものではなく、残らないものに価値を感じる。そしてやはり私はピアノが好きだ。外に出てからすっかり弾かなくなってしまった。いつか弾こうと思っていたけれど、いつかはずっといつかのまま。やるなら今しかない。
オーストラリアをヒッチハイクで横断したのは、いい冒険だったが、帰国後は心が枯れてしまい、1年鬱で引きこもることになった。部屋の天井を見上げながら「オーストラリアを横断しても何の意味もなかった」と自己憐憫におちいる馬鹿な私に、今だったら「体験の本当の価値は、その直後ではなく、死に際に分かるものだ」と伝えたい。
死に際の自分は悟ってる。
精神修養 #18 (2h/46h)
・「反応する」状態の定義は何か。呼吸に気づいていれば「反応していない」、気づけていなければ「反応している」ということか。
・反応しているときは、体力を多く消耗する。反応すると姿勢が乱れる(徐々に背筋が曲がってくる)。反応すると(姿勢が崩れて)、呼吸も乱れる。
・集中できるとき(反応しない時)は、1時間は苦もなくあっという間に終わるが、集中できていないときは拷問のような時間になる。
・ヴィパッサナー瞑想を試みる。頭に生じている感覚に意識を向けるが、集中力が及ばないのか、あまり感覚を感じられない。
(微細だが、全身には常に感覚が生じている。頭、腕、背中、首、足の裏など、すべて)
・まだ集中力を磨く必要がありそうなので、再び呼吸の瞑想に戻す。終盤は、呼吸がサラサラと流れる沢のようだった。集中できているときは感触まで分かる。
・クッションを敷くのを忘れ、尻がとにかく痛い。だが拷問だと感じないのは、不快を嫌悪せず、感覚として捉えられているからか。
・思考に反応したとき、反射的にお尻を浮かして、痛みを和らげていた。1つに反応すれば、別のものにも反応し、また別のものにも反応・・・繰り返し)
・当分は呼吸に集中しつつ、できそうであれば全身の感覚にも注意を向けていく
やると宣言したっきり、やらないみたいなことが私には度々あった。やると宣言した時は、やる気満々なのだけれど、日が経つと、どうしてあんなことをやると言ってしまったのだろう?と思うくらいどうでもよくなった。
そんなことが重なると、徐々に自分の言葉が信用できなくなる。今の自分が、これからも今の自分でいられるか分からなくなった。だから、新しく何かをやりたいと思っても、「やる」と口にすることが怖ろしくなる。
もしまたやると言って、何もやらなかったら、口だけの人間だと自分を責めてしまうだろう、そして他人からも口だけの人間だと思われるだろう、と。
呼吸に集中して、自分でいられる時間が増えたこともあって、今はこの感覚もかなり薄れた。
そして死に際の自分から見れば、何を低次元なことを悩んでいるのだと思う。武士に二言はないとは言うけど、やろうと思って、さらに本心が見えたなら、過去の言葉に縛られず、方向転換すればいいじゃないか。それを人にどう思われるかとか、余計なことを考えて、結局何もやれないなんて、お前はどれだけ愚か者なんだ。人に見てもらうために生きてんじゃねえよ。自分の本心に従って生きてみろよ。
やはり、死に際の自分は悟っている。
悟った自分は、今日の私に、潔く死んでほしい。
コメントを残す