僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。
ポール・ニーザン
ついに新しくつくった森の家で初夜を迎える。できることなら、完全に完成してから、新たな気持ちで住み始めたいところだったが、ここのところの寒波が凄まじく、寒さを凌ぐために予定を前倒しすることにした。薪ストーブの取り付けが終わっていないが、近所のおじさんから貰った灯油ストーヴがある。昨今、災害に備えて需要が高まっているのか、ホームセンターでよく見かける、電気がなくても使えるやつだ。今日、灯油を買ってきて、寝られるように床を水拭きをした。それから、夜を明るく過ごせるように、豆粒くらいの電球を取り付けた。そうして日が暮れて、机の上でこれを書いている。
寂しい夜が心の奥底に帰ってきた。窓の外はとても静かで、ストーヴの上に置いたヤカンのお湯が、沸々と滾る音だけが聞こえてくる。家が冷え切っていたからか部屋はまだ暖かくならない。だが、昨年の小屋とちがって隙間風は入ってこないので、暖かくなるのは時間の問題だろう。
“私は何度太陽を裏切ったことだろう”と、昨日、深く懺悔した。反省ではない。懺悔である。その証拠に、こうして言葉に書き表そうと心に決めたのだ。人間の生きる態度とは、言葉に率直にあらわれる。昨年、美しい美しい森の家から逃げ出してから、今日という今日の日まで、私は随分と恥ずかしい時間を過ごしたものだ。無力と虚ろに揺らぎながら、何の実際的努力もない、この世に絶望するという、ただ子供じみた態度に己を欺きつづけた。卑怯で卑劣な人間である。
「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」とポール・ニーザンは言う。たしかに歳を重ねるごとに、人間の力は衰えていく。若かりし頃のように情熱の引力だけで夢を滑空することは難しくなる。体力のない者から困難に敗北し、智慧を持たなかった者は惨めな歳の取り方をする。かといって、美しい人生が二十歳のものかと問われれば、決してそんなことはない。美しい人生はいつでも丘を乗り越えた先にある。幾つになろうと、年齢に適ったやり方で乗り越えていくだけである。そのために戦うのである。力と智慧を弁え、己を修練し、戦いつづける者だけが、老年の魂を救い、人生の美しさに一点の死を付与できるのである。
懺悔というには、言葉が足りぬのは承知している。だが、私の息は浅くなりすぎた。息が切らし、海面で足掻くことしかできない惨めな私を、今一度恥じ再出発するまで。
2025.2.8