己の命が誰から与えられたものかを考えれば、己の命を何のために捧げればよいかは自ずと見えてくる。毎日を楽なように過ごし、力を持て余して眠ることが生命的に正しく、へとへとになるまで働ききることが生命的に間違っているとは到底思えないように、根源から与えられた力は、何らかの意志を持っていることを認める必要がある。くだびれるまでよく働いて、自分のために力を使えぬことは、損しているように思えるが(実際損をしているが)、力の運用に自他の境界線を引くこと自体、己の存在を捉えきれていないことになる。
稲刈りのときに立てておいた藁束を、ひたすら裁断機に放り込んでいく仕事をしている。こまかくした藁は、畑にまくことで有機肥料となる。相当な手間と労力がかかるので、今日、藁をまく農家はほとんどいないという。畑の仕事はそもそも素朴なものであるが、畑のなかでも素朴な仕事はどんどん失われつつある。収穫までロボットが全自動で行う日には、令和の畑は素朴な時代だったと懐かしむ者もいるかもしれない。
誠に、素朴は人間が力を取り戻す手段であるとおれは信じる。鬱の人間も畑で働くと元気になるというのは、第一に素朴だからである。素朴を追い求める延長に神はあるが、洗練されたものを求めつづければ虚無が待ち受ける。精神の堕落は、重力に逆らうことを忘れた無力な生命の形である。太陽や土、自然の絶対的な信頼をもたんとする力があれば、人間は仕合せになれる。
2024.11.13