なぜ、労苦する者に光を賜り
悩み嘆く者を生かしておられるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。
地に埋もれた宝にもまさって
死を探し求めているのに。
墓を見出すことさえできれば
喜び踊り、歓喜するだろうに。
「ヨブ記」3.20-22
気を赦せば幸福を食いすぎる。だが幸福には食われぬよう、牙を研いでおくことだ。苛酷で凄惨な逆境に置かれるほど、身も心も窶れてゆくが、魂は息を吹き返すよう、厳かに詩を詠いだす。この瞬間、気分は最悪だが、人間的には悪くない状態である。マゾヒズムの趣味はあるまいが、劣悪な気候、嵐に虐げられたときに啼き叫ぶ、昂ぶる野性には高潔な香りを感じる。
端的に言えば、食い物のことを考える低俗な自我よりも、たとえ悪意に満ち満ちていようと、憎悪や復讐の念に駆られている危機的な状態のほうが、よっぽど人間らしいということだ。人間として生きようと願うほど、快適で安全な暮らしには何の魅力も感じられず、粗野で野蛮な旅路のなかを、野垂れ死んでいくのだと思われるばかりである。
ついこないだ、つめたい秋雨にずぶ濡れになりながら、心を勇めるために「麦と兵隊」を歌いながら野菜を収穫した。あんな思いは二度と御免だが、共に働く老爺の、ずぶ濡れの姿には心打たれた。爺ちゃんは幸福な人間にちがいないが、幸福に食われるほどの軟な道徳家ではない。言葉を繰り返すが、憎悪や復讐の念を抱えようと、牙を剥きつづけていれば、人間の矜持は叩き上げられいく。爺ちゃんから感じたのは、力だ。力の信仰。人間の力。
2024.10.25