奈良にある法隆寺には当然ながらコンクリート基礎がない。それなのに、現代建築はコンクリート基礎がないと建設することができない。これは普通に考えておかしいことだ。しかも、大工さんもいらないって言っている。
生理的におかしいことを受け入れてはいけない。それは疑問として、ちゃんと自分の手前でとどめておかなくては駄目だ。体内に入れて咀嚼してしまったら、自分が駄目になってしまう。
坂口恭平「独立国家のつくりかた」
足の怪我で働けない。怠け癖をつけまいと、あたらしい小屋の設計をあれこれ考えている。
小屋の設計を考えるにあたって、画一化された小屋づくりの常識を目の当たりにする。基礎石は地面に埋めて周囲を生コンで固める。基礎石の上に大引きを流し、その上に構造用合板をはって床をつくる。壁も屋根も同じように、つくった枠組みに合板をはっていく。内側からはグラスウールを詰め込んで、石膏ボードを張りつけて充填断熱を完成させる。このままでは合板がむき出しなので、外壁には外壁材を張り、屋根には屋根材を張る。内装を洒落た感じに仕上げるために、壁や床にもシートや無垢材を張り付ける。俗に言う2×4工法であるが、どれも似たようなものができあがる。
あまり知られていないが、合板は薄っぺらい単板を接着剤で重ねてつくられている。実は、この接着剤が経年劣化で揮発すると、身体に有毒なガスとなる。壁に貼られるシートや、防腐剤も同様だ。家が密閉されていることがかえって悪さをし、体調を崩す者もあるらしい。合板を使うことで、面で強度を保ちながら、作業工程は簡易化され、見た目もすっきり綺麗となった。だが、ほんとうに人間のためを考えられているかを問えば、私にはどうも受け入れがたい。
あらためて家とはを考える。私にとって家とは、第一に、雨風をしのぎ、寒暖から身を守る砦である。夏は涼しく過ごし、仕事で疲れた身体を休め、冬は寒さを耐えしのぎ、冬眠する熊のように生命力を蓄える洞窟である。第二に、簡素であり、精神修養に有益な場である。物が少なく、書物に集中できる一室である。
なるべく造りを簡潔に、それでいて最低限の性能を確保したい。以上を踏まえて、基礎石と地面は接着せず、土台と基礎石も接着しないことにしようと思う。強風に煽られるのに弱くなるなんて話もきくが、そもそも、四方を高い山に囲まれた信州は、台風の影響を受けにくい。万が一、小屋が倒れるなんてことがあるとしても、そんなときは、森中の木が薙ぎ倒されて、小屋も無事ではないだろう。それよりも、土台を固定しなければ、地盤沈下の修繕がしやすいし、私がこの世を去っても、コンクリートがゴミになることもあるまい。なにより、鴨長明の方丈庵も、基礎石に小屋をのっけただけだった。それで数十年やっていたわけだし、そのおかげで小屋を解体して移動することもできたのだ。
土台の防腐剤の代わりには、柿渋を使う。柿渋は柿を絞って熟成させた汁で、古く日本では、火傷や霜焼けなんかの薬としても使われてきた。建築においても防水防腐効果があり、神社の鳥居なんかに使われてきたらしい。戦後、化学製品が普及したことと、柿渋の匂いの苦手意識からか、現代建築には徐々に使われなくなっていった。だが、科学の鎧を脱ぐならば、いまこそ柿渋の出番である。
床や壁に合板は使わず、杉の無垢材を一枚ずつ張っていく。当然、面で覆える合板よりも金はかかるが、それも数万円の差でしかないし、何より無垢な板を使えるなら最高である。
断熱材と屋根材については頭を抱えている。断熱には、おがくずやもみ殻なんかを使っていたとも聞くけど、実際どれほどの効力があるのだろう。茅葺の屋根にも憧れるが、薪ストーブを焚いたとき火事が怖い。ここまでの計画は十分な実現性があるが、ここばかりは妥協するしかないだろうか。
思案はまだまだつづく。
2024.9.7
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